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脳内会議

考え事が好きな人の頭の中身

好きな人の全てを好きになる必要はない

今日はとあるツイートに触発されて、つらつら呟いた事を少し添削して記事として書きます。

 元となるツイートはこれ。

 

このツイート。本当この通りだと思うけど、実はこれが分からずに苦しい思いをしている人って多いのではないかと思う。

 

どんなに尊敬してる人が居たとしても、その人に対して嫌だなと思う部分があったりするし、嫌いな人であっても『この人のここはすげーわ』とも思う部分があったりする。

これ、別に何もおかしくないし変じゃないし、とっても当たり前の事だと思う。

 

例えば、貴方がカレー好きだったとする。

でも、その中に入っているニンジンが嫌いって事、あるよね。

逆に、ニンジンは嫌いなんだけど、カレーに入ってたら食べられるって事も、あるよね。

おかしな例え話だけど、こういう事だと思うんだよ。

 

わざわざ何かを統一しなくて良い。

ニンジンが嫌いだからニンジンが入ってるカレー丸っきり嫌い!だなんてならなくていいし、カレーが好きだからその中に入っている物全部好き!って無理にしなくてもいい。

好きな部分は好き、嫌いな部分は嫌い、でいいんだよ。

 

それに、誰かの事を尊敬して全肯定状態になったら、それただの心酔でしょ。

心酔と言うより、信者というか。

それってとても怖い事だと思う。

だって人って自分の中に「好き嫌い」「良し悪し」の判断基準を持っているはずなのに、それが機能しなくなるって事だから。
かなり盲目的になってしまうよね。

かなりその存在との境界線が薄れるよね。

だから、尊敬はするけど相容れない部分がある、みたいな状態ってある種とっても健全な状態なんじゃないかな。

 

もしもどこかに、『大好きな人の事の全てを好きになれなくて悩んでる』みたいな人がいたら、私は声を大にして言いたい。

 

『全て丸ごと好きになる必要なんてない』って。

 

人間は色んな面がある。色んな表情がある。色んな感情がある。

他人である以上その全てを見ることはとても難しいし、その全てを受け入れる必要はない。

貴方と相手はそもそも価値観が違う人間なんだから。

「価値観が似ている」事があったとしても「全く一緒」なんてほぼないんだから。

だから貴方が大好きな相手に対して嫌だと感じたとしても、それはとても尊い貴方の感情だという事を忘れないで欲しい。

それで良い。嫌だと感じる部分を無理やり受け入れる必要ない。

ただ、「相手にはそういう部分があるのだ」と客観的に受け止めてれば良い。

 

嫌だと思うその感情は貴方の大切な感性。

どうしても嫌なら冷静に相手に嫌なことを伝えたら良い。もしかしたら相手は、貴方の嫌だと言う感情をあっさり受け止めて改善してくれるかもしれない。もしかしたら改善してくれないかもしれない。

そこは相手の自由意思だから、その後の相手の行動にはあまり期待を寄せない方が良いけれど。


全てを受け入れられずとも、理解しあって関係を深めていくのが信頼なんだと思う。良い部分と悪い部分、両方あっての人だから。好きな人の全てを好きになろうとしなくていいんだよ。

好きは好き、嫌いは嫌い、という貴方の感覚を、まずは一番に大切にして欲しいと心から思う。

 

信じるか信じないかはどうでもいい

独り言

今日はとってもぶっ飛んだ話をします。

こいつ頭がおかしくなったんじゃないかと思うかもしれません。

私もそう思ってるので安心してください。

 

スピリチュアルなものを嫌悪してる人、アンチ心霊現象派の人、リターン推奨します。

 

はい、要するに今日はそういう話です。

 

ではいきます。

 

最近たくさんのご縁があって、色々な方に出会い、色々あって、ある新しい学びを得て、エネルギーヒーリングが出来るようになりました。

それに伴い、目に見えない悪い存在とか、生霊とか、そういったものとの遭遇することが増えました。

目に見えない良い存在とも交流を持つようになりました。

心霊現象は今までも少し体験したことがあったのですが、自分がそれらと関わりを持つようになるとは思ってもいなかったし、今でも半分信じてないです。

ですが、本当に遭遇することが増えました。

特に生霊。

 

皆さん知ってましたか。

生霊と言うのは、人間が向き合いたくなくて解離させた感情から発生するらしいですよ。

 

生霊は、その対象の人の体のどこかに入り込んで悪さをしたりします。

良くありがちなのは「肩が重くなる」とかいう、あれ。

 

で、ですね。

身近な人の元にも生霊さんが飛んできていたんです。

そして対象の人にちょっとした悪さをしていました。

これはいけません。

悪さをしてはいけないし、元の体に戻してあげないと。

こういう時に私が出来る事は、生霊さんが誰なのかを特定して、生霊さんの言葉を聞いてあげて、納得してもらう事。その上で、当人の体へ戻ってもらう事。

なので、その日もその生霊さんの話を聞いていました。

 

生霊さんは伝えてきます。対象の人へ対する想いを。

そしてそれを対象の人へと通訳してあげます。

すると、対象の人は思う事があったのでしょう、涙を流しました。

一通り生霊さんの言葉を通訳してあげると、生霊さんは納得したようです。

もう気が済んだようなので、あとは元の体に戻ってもらいます。

 

一連の事が終わった後に対象の方とお話をしていたのですが、しばらくその方は涙が止まらなかったようです。

あの人がそんな風に思っていたなんて思わなかった、と。

 

そして落ち着いた後、随分とすっきりしている自分に気が付いたようです。

 

これを聞いて、これを読んだ人はどう思うでしょうか。

きっとね『そんな事あるはずがない』って思うと思うんです。

実際、私もこんなことあるのかよ!といまだに戸惑いを隠せません。

それに、もしかしたらこれは単なる私の妄想かも知れない、とも思っています。

 

でもね、実はそれってどうでもいいことだと思ったんです。

 

今私が話した事のすべて。

私のやっている事すべて。

私が聞こえていると思っているその声。

私が感じている目に見えないの存在達。

 

それらすべてが妄想でも空想でも真実でもなんでも、別にどうでもいいと思っています。

 

それらすべてが空虚なものであったとしても、私が聞こえてると感じている言葉を対象の方に伝えて『その結果その方の感情が動いて、そして気持ちがすっきりしていた』というのは事実でしかないんです。

私が伝えた言葉が嘘でも妄想でも、結果としてその対象の方にプラスに働いたこの事実だけは変わりません。

 

だったら、目に見えない存在とか、生霊とか、そんなのあるかないかの検証はそんなに大事ではないんだなって。

だって、100%信じきれない私がやっているにも関わらず、対象者には変化が起きているんだもの。

だからそれらを信じるかどうかはあまり関係ないんだなって。

 

そう思った最近だったのでした。

 

ここまで読んでくれた人はごく僅かでしょう。

その僅かな人の大半は「こいつ何言ってんだ」と思った事でしょう。

私もいまだにそう思っています。安心してください。

自分で自分を疑えるくらいには、まだ理性的です。

 

まぁ、世の中にはこんな摩訶不思議な事もあるんだよって事。

そしてそれを信じるか信じないかは、どうでもいいんだよって事をお伝えしたかったのでした。

 

以上、頭がおかしくなったような本日の会議はこれまで。

ここには全て無いが全てある

考え事

『ここには全て無いが、全てある』

そんな言葉をどこかで聞いたことがある。

何かの格言?

調べても分からなかったから勘違いかもしれない。

 

でもこの言葉、ある局面に対しては真理なのかもしれないと感じている。

 

ここには全てが無い。

そう、何もない。

身の回りに物質はたくさんある。

しかしそれ以外のものは何もない。

 

自信・誇り・優しさ・良心・悪意・怒り・悲しみ

 

こういった目に見えない全ては存在しない。

だってわからないでしょう?

貴方の胸の中にあるそのナニカ、それは一体なんですか?って聞かれて

『これは私の優しさです』って主張したとして、誰がそれを優しさだと証明できるの?

その他のモノに関してもそう。

あるようで無い。すべて無い。無いんだよ。単なる思い過ごしかも知れない。

 

でもそうなると、逆に全てがある、とも言えるのではないか。

今貴方の胸の中に、ナニカありますか?と聞かれて

『何もありません』と主張したとして、誰がそこには何もないって証明できるの?

出来ないんだよ。何も無いなんて証明は。そしたらきっと、全てあるよね。悪魔の証明じゃないけどさ。

 

ここには全て無いが、全てある。

 

あるようで無いし、無いようである。

どっちが真実か?それは分からない。

証明できないから。ある事も、無い事も。

 

だけど人間不思議なもので、『ある』と思った瞬間に『ある状態』を作れると思うんだ。

それは『ある状態』と言うよりは『ある事に気が付いた状態』と言った方が近いかもしれない。

 

例えば、怒りという感情を例に挙げてみよう。

にこにこ楽しそうに笑っている人にこう聞いてみる。

「貴方に怒りはありますか?」と。

するとどうだろう。

その人はにこにこ楽しそうに笑っていて、一見怒りとは無縁の様に見えた。

確かにその人の中に『現在進行形の怒り』はないのだろう。

でも、きっと考えるはずだ。その人にとっての怒りとは何かを。

そして思い出すはずだ。

過去に感じた怒りの色々を。その時に感じた感情の動きを。抑えきれないその感情を。

そしたらほら、今その人の中に『怒り』があるね。

 

全て無いが全てある。

 

これはきっと意識のフォーカスの仕方によって全て無い状態にも、全てある状態にも出来る、という事なのではないだろうか。

よく「引き寄せの法則」とかいうあれ。

強く願えばそれを引き寄せる事が出来る!って、んなわけないじゃんって思うの。

でもやっぱり、ある局面ではそれが成り立つ事があると思っていて、それが上記で言っていた「全て無いが全てある」の話。

※私は世の中で言われている「引き寄せの法則」がどういう意味で使われているのか知りません。

ここで言っているのは全部私の考えで、きっとこういう事じゃないのという事を言ってるだけです。あしからず。

 

「家が欲しい!家が欲しい!」って思ってても家は手に入らない。

でも、「家が欲しいと強く思う事で、家を手に入れる為に必要な情報をフォーカスして見るようになる。結果、家を手に入れる準備が進んでいく」事は起きる。

 

「幸せになりたい!幸せになりたい!」と思ってても幸せになれるわけではない。

でも「幸せになりたいと強く思う事で、自分にとっての幸せとは一体何なのかを考える。実はそれはゆっくりお風呂に入る事や些細な事であったりして、今まで気が付かなかった幸せに気が付くようになる」事は起きる。

 

そういう風に、今まで無いと思ってた事が実はあった事に気が付く、みたいなことは充分あると思う。

 

そういう意味で、全て無いが全てある、っていうのはある種の真理だよねって思ったのでした。

 

ま、要するにさ、肩ひじ張らずに行こうよ。

貴方はすでに、全てあるんだから。

 

以上、今日の会議これにて終了。

体に触れて思う事

独り言

昨年の夏に事務の仕事を辞めた。

 

私は高校を卒業後、カイロプラクティックの専門学校に通った。

整体師になろうと思ったからだ。

2年間学校で体の事をしっかりと学び、就職したのはリラクゼーションサロンだった。

2年間の勉強の中で、カイロのような【治療】的な要素が強い施術よりも、リラクゼーションのような【リラックス】を目的とした施術が好みだと思ったのだ。

 

就職してしばらくして私は体を壊した。

なぜか私を指名してくれるお客様は、体の大きな強圧を好む方ばかりだったのだ。

私のかけられる圧には限界がある。しかしそれ以上を望まれたため、無理が祟った。

結果、膝関節炎、ひじ痛、原因不明の背中の痛みを患った。

 

階段の上り下りもままらなくなり、施術に雑念が入ってしまう。

そんな自分の施術が嫌で仕方なく、こんなサービスを提供するくらいならと、2年もたたずに退職した。

 

その後、のらりくらりと色々なバイトや仕事をしながらふと、また整体の仕事に戻りたいと思ったのだ。

 

そして私は、昨年の夏に事務の仕事を辞めた。

 

それからすぐにリラクゼーションサロンの転職先を探そうと思ったのだが、仕事を辞めたタイミングでプライベートで色々とあり、身動きが取れなくなり、今に至っている。

 

最近は、知り合いの体をお借りして施術の練習をするようになった。

そして、色々な方の体を触り、感じた事がある。

 

【体はその人の色々な事を表している】という事だ。

これは、現役当時にも感じていた事ではあるのだが、最近さらにそれが確信に強まっている。

 

例えば。

・普段から緊張する場面にいる事が多い方

・頭を悩ませることが多い方

・朗らかで優しい方

・ストレスを感じていても隠そうとする方

・頑固な方

 

そういうそれぞれが、綺麗に体に反映されている。

普段から緊張している人は、自分を守るかのように筋肉も関節もガチガチだったり。

朗らかで優しい方は体の表面(脂肪と言う意味ではなく)が柔らかかったり。

頑固な方は、筋肉の芯の方がガツッと固くなっていたり。

 

本当に面白い位に体にそれらが表れている。

そして、体に表れているそれらの疲れや辛さを感じ取っては

『大変だね、お疲れ様』と、心の中で呟かずにはいられなくなるのだ。

 

今はまだ、新しい就職先は見つかっていない。

しかし縁あって、サロンをお借りして時々施術をさせて貰っている。

 

私は、疲れや辛さを体に携えているいる人たちのそれらを、ホッとほぐせる様な施術者になりたいと思っている。

それらをほぐすには、技術が良いというのは大前提だが、実はそれだけではない。

その場所が安心で安全であり、その場所に来るとふぅっと心がほどける様な雰囲気が無いといけないのだ。

そして何より、施術者がクリアな状態で、相手に不要な刺激を与えず、お客様に寄り添えなければならないのだと思う。

そういう施術者になれるよう、地道に精進していこうと思っている。

 

自分の事を過信せず、甘んじず、着実に前を見る事。

そしてそれとは逆に、自分を卑下せず、いじけず、正当な評価を自分に下す事。

 

これらに気を付けて、更に成長していく事を、ここに誓う。

 

宣誓文の様になってしまったけれど…

 

今日はここまで。

一貫している事

独り言

最近、一貫して気を付けている事がある。

それは「自分が気分よく・心地よく居られる選択肢を選ぶ」という事だ。

 

申し訳ないが、自分が気分よく・心地よく居る為には、他者を優先しないことになる。

本当に申し訳ないけれど、まずは自分、とにかく自分、という事で、今は何に置いても自分優先になるような選択肢を取っている。

 

人に何かをお勧めされても、好みでなければ取り入れない。

人から何かを依頼されても、気が向かなければやらない。

 

そんな感じで、とにかく「自分の気持ち第一優先」で生きている。

 

何故こんな自己中とも取れる様な事をしているかと言うと、自分の【好き嫌い】【快不快】を知り、自分らしさとはなんたるや、を見つめてみたいと思ったからなのだ。

自分らしさを知る事で、より生き生きとした人生を歩みたい、と言う気持ちから行っている。

実験的なので何がどう変化するかは分からないが、今の所割と気分のいい日が多く、精神的にも安定しているので、良い試みなのではないかと思っている。

 

そして、もう一つ気を付けている事がある。

 

それは「他者のすることに口出ししない」という事だ。

これは、相手の意志を尊重するという事。

またそれと同時に、起きたすべての出来事に対して、自分が責任を背負うという事でもある。

 

例えば、私はお節介を焼かれるのが好きではない。

ここに、お節介好きの人がいて、私にあれこれお節介を焼いているとする。

 

「自分が気持ちよく過ごす為」には、相手にお節介を止めてもらう必要がある。

しかし「他者のすることに口出ししない」と言う事も大切にしているので「お節介を止めてください」と相手に伝える事はしない。

ではどうするか。

この場合「お節介をする人と適度に距離を保つ」という事をするのだ。

「自分が気持ちよく過ごす為」にはお節介を無くす必要があるが、相手の「お節介行為」を止める事はあえてせず、自分の意志で、その人(お節介)から距離を取るようにするのだ。

 

距離を取ってしまう事で、もしかしたら相手は不快に感じるかもしれない。

お節介を止めて欲しい、と直接言った方がスムーズな事もあるかもしれない。

しかし、私は相手の意志(お節介をしたい気持ち)を尊重したい。

だから、私は私の責任で、結果相手に嫌われるとしても、自分の意志でその人から距離を取る。

相手の行動を変えるような口出しはしない。

 

そういう事を一貫して行うようにしているのだ。

 

****

 

私は私の生きたいように生きます。

貴方は貴方の生きたいように生きてください。

私は私の責任で、自分の人生を背負います。

何か問題があれば自分の意志で対処します。

貴方は貴方の責任で、自分の人生を背負ってください。

何か問題があった時、私が手助けできれば手助けします。

 

そういうスタンスで、最近は過ごしている。

 

これを行うようになってから、自分の人生の主人公は自分なのだと、強く思えるようになった気がする。

 

もしかしたら冷たい考え方なのかもしれない。

でも、一人ひとりがきちんと自立していれば、いざと言う時助け合う事も容易になるような気がしているのだ。

 

だから私は、このスタンスを続けて行こうと思っている。

 

要するに『私は私が好きなように行動するし対処するから、貴方も好きなように行動してね。自己責任で、生きようね。』って事。

だからどうという事はない。

ただそれだけ。

 

今日の会議はこれまで。

心の弱いあなたにも問題がある

独り言

最近Netflixと言うサービスに登録した。

 

www.netflix.com

 

月額650円で映画やドラマが見放題、というサービスだ。

コンテンツ的にはちょっとがっかりな品ぞろえだったりもするけれど、暇つぶしをするには丁度いい。

はじめの1か月は無料なので、とりあえず無料期間は楽しむ予定だ。

 

その中で昨日見ていたドラマがある。

「リミット」と言うドラマだ。

何年か前にテレ東でやってたみたいだね。

 

www.tv-tokyo.co.jp

 

このドラマのあらすじは

 

・交流キャンプへ旅立った高校のクラス生徒。

しかしキャンプ地へ向かうバスの運転手は夜勤明けで寝不足の運転手だった。急遽シフト変更を会社から命じられたのだ。

寝不足の運転手。途中で意識が朦朧としはじめ、キャンプ地までのルートを間違ってしまうが、それに気が付くこともなくふらふらと運転を続ける。

山道でカーブに差し掛かったその時、ついに運転手は意識を失ってしまう。それと共に崖から転落するバス。

 

クラスメイトのほとんどが死亡し、生き残ったのはたったの数名。

救助を待つが、途中で進路を外れているせいで発見が遅れてしまい…

 

そんな最中、生き残った生徒同士争いが勃発。

みんなの運命はいかに…!?

 

みたいな感じ。

 

それで、このドラマの途中にこんなセリフが出てくる。

 

「心が弱い○○さんにも問題があると思う」

 

このセリフに、ものすごく嫌悪感を抱いた私。

今日はこれについて書き連ねる。

 

****

 

心が弱いあなたにも問題がある、と言う言葉。

この言葉、暴力以外の何ものでもないと思っている。

 

人間の心は、本来必要な時期に必要なものを与えられて初めて強くなる。

 

例えば親からの愛情。

友人との信頼関係。

何かを成し遂げた成功体験。

人から認められる承認欲求。

 

こういったものが成長の過程で親や周りの人間から与えられて、初めて「心の土台」のようなものが出来上がる。

この「心の土台」が無いと、自分に自信が無かったり、弱い自分を隠す為に虚勢を張ったりするのだ。

 

そして土台が無い人は、他人からのちょっとした一言で心がぐらついて、どうすることも出来なくなってしまう事がある。

 

でもそれは、決してその人の心が弱いのが悪いのではない。

弱い心が出来上がってしまった、それまでの環境が悪いのだ。

言うなれば、弱い心の持ち主は被害者でもある。

 

それなのに、「心が弱いあなたに問題がある」と言われてしまったらどうだろう。

これは「痴漢をされたあなたにも問題がある」や「強盗に巻き込まれたあなたにも問題がある」と同等の暴論を言われてるのと変わりないのではないだろうか。

 

****

 

心が強い人には分からないのだ。

心が弱い人の事が。

心の弱い人の感情が。

心の弱い人の繊細さが。

それはもう仕方ないのだ。

 

私はそういう人間とは、もう分かりあおうとも思わない。

ただ一つ願うのは、分からないなら分からないなりに、下手な手出しをしないでおいて欲しい。

「分からない」は時に人を傷つける。

それを自覚して、理解する気が無いのなら、下手なことを言わずにいる。

それが相手の為であるという事を知って欲しい。

これ以上、何気ない言葉の暴力で傷付く人が出ないように。

そう願ってやまない。

 

本日の会議はここまで。

私とあなたの距離感は

独り言

距離感。

人間関係において、とても鍵となるであろう距離感。

 

私は距離感にとても敏感だ。

そして、私はとても他者との距離感を大切にする人間だ。

 

私にとっての距離感とは、ある種の防護壁であり、セーフティスペースである。

それは、物理的な距離も心理的な距離でも同じである。

 

パーソナルスペースというものがあるが、私のパーソナルスペースは結構広く取られているだろう。

その距離を詰めてくる人間に対しては、簡単に心のシャッターを下ろす仕様となっている。

 

嫌なんだよね。近寄られるの。

私の半径30㎝は本当に気を許さないと近寄らせられない。

ボディタッチとか、本当に無理。

 

そして、物理的な距離よりももっと大切なのは、心理的な距離だ。

 

物理的な距離でもそうなように、心理的な距離も簡単には近寄らせない。

それなのに強引に距離感を縮めてこようとする人に対しては、簡単にシャットアウト。

それはそうだ。

こっちにしてみたら、土足で自宅に入り込まれたような感覚なのだから。

怖いし鬱陶しい。

だからいつもある程度の距離を保ちつつ、シャッターを閉じている。

 

私をみてもっとオープンになりなよ!みたいに感じる人間も一定数いるらしいが、そんな人たちにはこう言いたい。

「私にとって心をオープンにするほどの価値があなたにないだけだ」と。

 

いつでもだれにでも心を閉ざしているわけではない。

オープンにする相手だってもちろんいる。

オープンにするかどうか、自分で選択しているだけだ。

 

そして、時として完全に心をフルオープンに出来る様な人に出会う事がある。

総じてみんな親友だ。

そこにある信頼感はかなりのモノだと思っている。

 

しかしその親友たちにだって、簡単に心を開いたわけではなかった。

 

長い時間をかけて築いてきた関係性があったからこそ、心を開けたのだ。

時間が必要なのだ。何事にも。

 

そういえば距離感の他にも「境界線」と言うものを設けている。

設けている、というか、誰にでもあるのだが。

 

私はこの境界線を越えられるのをひどく嫌う。

 

例えばこうだ。

「君は絶対にこうしたほうが良いよ!」

「君の悩みは何?解決してあげるよ!」などなど。

なんだか知らないけれど、人の人生に介入しようとしてくるような行為をするような人。

こういう事をされると、とても不愉快な気持ちになる。

 

アドバイスが欲しい時は欲しい人に聞くし、あなたの意見は一切聞いていないよ、って切り捨てたくなる。

私の人生に起きた全ての事は、自分で責任もって背負いますんで。

手出ししないでください、と言いたくなる。

 

私はこの距離感と境界線が守られないような人間関係はなるべく持たないようにしている。

こういう人が一人でもいると、私の心はボロボロになるからだ。

(相手はそんなつもり一切ないのだけれどね)

 

なんで今日こんなことを書いたかと言うと、不思議とそういう人間が集まってくるからなのである。

なんでだろう。本当厄介。

 

こういう人に対しては毅然とした態度で、自分の軸をずらさない様に気を付けなければならない。

 

ここで安易に受け入れ態勢を作ってしまうと、壊れるのは自分だ。

 

そんな戒めも込めて、本日はここまで。