脳内会議

考え事が好きな人の頭の中身

他人の為に生きることは出来ないけれど

私という人間はどこまでも自分中心な人間だ。

何をするでも、自分が楽しくなければやりたくないし、自分がやりたいと思わなければ何もできない。
 
例えば「大好きな恋人の為に、恋人が好きな料理を作って、帰ってくるのを待ってるの♡」的なあれがあるけれど、私にはそれが出来ない。
他人のために生きることがどう頑張っても出来ないのだ。
「『私が』恋人の為にご飯を作りたいから作る」なら出来る。
「『恋人の為に』ご飯を作る」が出来ない。
どこまでも自分中心。
だから他人中心になると、途端に息ができなくなって苦しくて溺れてしまいそうになる。
 
そんな私の信念や指標となるモノは、当然「自分自身」になる。
 
それを行う事が自分にとって良い事なのかどうか。
それは自分が楽しくなれるのか。
それで自分は自分に胸を張れるのか。
 
全てはそこに帰着する。
 
だってこの人生は私のモノだし、自分が自分を幸せに出来なければ、誰も幸せに出来ないじゃない。
 
無いモノは他人に与えられない。
自分が満ちて初めて、他人に矢印を向けることが出来る。
だから、まずは自分。 自分第一。
 
 
 
考え事の多い私は、当然悩み事も多い傾向にある。
何で悩むのかと言われれば多種多様なのだけれど、悩んでいる時はだいたい自分の指標を見失ってるときが多い気がする。
 
そんな時に思い出すのは「自分はどうしたいのか?」という言葉だ。
 
自分はどうしたいのか。
自分の本当の気持ちはなんなのか。
自分の気持ちに正直になれているか。
 
何かの決定を下すときには、当然「自分以外」を考慮しなければならない。
その時に置かれている状況、関わる人、タイミング。
それも念頭に入れた上で判断をしなければならない。
ただその「自分以外」が先行してしまうと、この悩みからは抜け出せなくなってしまうのだ。
そこに「自分」がいなくなってしまうから。
意思決定を下す本人が不在では、何も決められないのだ。
 
だからこそ、必ず「自分」はどうしたいのかを決めた上で「自分以外」の状況を鑑みて決定を下す必要があると考えている。
 
*************
 
さて、私はここ数日頭を抱えていた。
今の状況と関わる人の事ばかりを考えて、自分の意思を無視して決断を下そうとしていたからだ。
 
あーでもないこーでもないと考えながら頭を抱えていた時に、ふと「自分はどうしたいの?」とどこからともなく問いかける声が聞こえた気がした。
そうしてやっと冷静さを取り戻し、自分に胸を張れる唯一の答えを見つけることができた。
 
 
私という人間はどこまでも自分中心な人間だ。
 
それでも。
 
私はこの人生が意外と気に入っている。
後悔する事の少ない人生を歩めている。
誰かに迷惑をかけたり傷つけたりしながらも、たくさんの人に支えられているこの人生に愛着を持っている。
 
今回見つけた答えを見失わない様に、これからも大切に前に進んでいこうと思う。
 
今日はここまで。

成長の尺度

私には幸せだなーって感じる時間がいくつかある。

 

例えば昼間から良い香りのバスソルトを入れた湯船に浸かってぼーっとしてる時とか。

好きなアーティストさんの曲を自宅で大声で熱唱してる時とか。

心を許している人と他愛もないお話をしている時とか。

実家の猫のお腹をもふもふしてる時とか。

(もふもふの後はアレルギーでくしゃみにやられるけど)

 

そういう幸せな時間って、なんか本当に幸せだなーって思える時で、多分この幸せの時間って昔からそう大きくは変わってない。

 

いつだって私はおんなじような事に幸せを感じていて、でもその幸せが当たり前になって、気が付くと幸せの上に胡坐をかいてしまっていることがある。

そうすると、もっともっと幸せが欲しいって喚き始めて、不幸の道を歩み始める。

あるのに無いって勘違いして、それを求めさまようのは、きっと不幸なことだと思うから。

だからその先は、不幸の道。

 

そんなことを、もうずっと繰り返している様な気がする。

でもその幸せが目の前から無くなってはじめて『あぁ、本当はとても幸せだったんじゃん』って気が付く。

そうして後悔して、泣いて、頭を抱えて、改めて今ある幸せを噛み締めて。

 

それからしばらくしてまたそれに慣れると、『もっともっと』ってやり始める。

 

***********

 

私はそんなことを繰り返しながら、大切なものを手に入れたり失ったり壊したり与えられたりしながらここまで生きてきたけれど、いったいあれからどれくらい成長できたんだろう。

 

自分の成長って、正直自分では見えない。

自分では成長したと思っても、他者から見たらそんなこと全然なかったりするし、自分では全然成長出来てないと思ってても、他者からはとっても成長したよと褒められることもあるし。

 

今の私はあの時と比べて成長できているのかな。

また同じ轍を踏むような、阿呆な人間のままではいないかな。

幸せな事を幸せだと言い続けられる清らかさと、大切なものを大切だと言い続けられる強さが欲しいな。

 

そんなことを考えたこの週末でした。

 

私は、今自分が思う未来の幸せに、少しでもいいから触れたいんだろうなぁ。

会いたくて会いたくて震えはしないけど

私には、ずっと会いたい人がいた。
以前一緒に住んでいた恋人だ。
正味3年近く一緒の時間を過ごしたが、色々あって1年前に別の人生を歩むことを決めた。
恋人として一緒に居る事は出来ないと、私がそう判断したからだ。

あれから1年が経った。
この1年、何度彼の事を思い出しただろうか。
何かにつけて彼の事がちらついた。

元気にやっているか?幸せな日々を過ごしているか?
相変わらずあの豪快な性格で波乱万丈な日々を送っているのだろか?
そんなことをよく考えていた。

彼と離れて分かったことは、恋人としては一緒に居れなかったけれど、心から尊敬していたし、1人の人間として愛していたんだな、という事だった。

私のこの人生において、彼の存在は無くてはならないモノだったし、彼がいなければ今の私は無かったと言い切れる。

彼と出会わなければ人生は素晴らしいだなんて思う事は無かっただろう。
彼がいなければ『私は私のままでいいんだ』と思える事も無かっただろう。
彼は間違いなく私の人生に大きな影響を残していった。
それほどに感謝しているし、大事に想っている。
付き合っている時は、正直つらくてしんどいこともまぁ多かったのだけれど。

その彼に、私はこの1年間ずっと会いたいと思っていた。
決して未練があったわけではない。
ただただ純粋に、あの人に会って色々な会話がしたいと思っていたのだ。

彼との会話ほど、楽しい事は無い。
彼は話を聞くのが上手だったし、話をするのも上手だった。
人には無い視点を持っていて、その話を聞くのが新鮮だった。
あまりにもフルオープンな人だったから「その話はちょっと…」と耳をふさぎたくなるような話もあったけれど、やっぱりそれさえ楽しかった。
全てOK!な姿勢でいる彼との会話は安心感も強かった。
あの人以上に会話をしていて楽しいと思える人に、いまだかつて出会ったことが無い。

だから別れてからも何かあると彼と会って話がしたいと願ってしまっていた。
もしかしたらこれは、ある種の依存症なのかもしれない。


1年前のあの日、別れを切り出したのは私だ。
楽しい事もたくさんあったが、死にたくなるくらいしんどいこともあった。
もうこれ以上は頑張れないと、心が音を上げたのは私だ。だから別れた。

別れを切り出した私からは「会いたい」だなんて気軽に言えなかった。
だから、この1年、会いたい気持ちを何とか往なして過ごしてきた。

でも、先日気が付いたのだ。

「会いたい」と思ったら「会いたい」と伝えない限り、会う事は出来ないんだって。
偶然街中ですれ違う奇跡を待ってたって、そんなのやってくるはずもない。

だから思い切って連絡をしてみた。
返事が来なくてもいいし拒絶されても構わないから、一歩前に踏み出そうと思った。
その一歩を踏み出せるのは私しかいないから。
『久しぶり』って連絡をした。

案外あっさりと返事が返って来て、久しぶりに飲みに行く約束をすることが出来た。

で、先日飲んできた。

やっぱり、彼との会話は最高に楽しかった。
この1年間で起きたことを色々と聞かせてくれたのだけれど、相変わらず波乱万丈な人生を歩んでいるようで、心配もあったけれど、正直その相変わらずさに安心してしまった。

あぁ、これでこそこの人だよなって、初めて彼をそのまま受け入れられた気がした。

この先の人生、彼とどのように関わっていけるかは分からない。
だけど、1年経っても変わらずこんなに楽しい会話を出来る存在を無い物にしたくはない。
今回久しぶりに会って相手がどのように感じたのかは分からないが、また遊ぶ約束をしたのだからきっと向こうも楽しい時間を過ごしてくれたのだろう。

お互い時間が許す限り、また楽しい時間を作っていけたらいいなと思った。

帰りの電車の中で、珍しくべろべろに酔っぱらった私が「この人と出会えて本当に良かった」と心底感じて、号泣したのは内緒の話。

 

今日はこれにて。

あなたが認めてくれた

絶賛落ち込み中です。

 
落ち込んでいる私は食事を自発的に食べなくなってしまうという傾向が昔からあります。
この傾向を昔はほったらかしにして倒れかけそうになるという事を何度かやったものですが、大人になった今はそれではよくないと十分に理解している為、落ち込み期には極力誰かと食事をとる時間を増やすようにしています。
食欲が無くても、人と一緒だとご飯を食べざる得なくなるので。
 
音声配信でも少し話したけれど、先日はお友達の家でお食事を頂きました。
土曜日には同級生が心配して食事に誘ってくれて、お夕飯を一緒に食べました。
 
で、その同級生とご飯を食べた時に、同級生に言われた言葉がものすごく胸に突き刺さったので、今日はそのことを書きたいと思います。
 
あ、今日は何となくデスマス口調で書いていきます。
 
 
以前ちらりと書いたことがあるのですが、私は本当に恋愛に向いていなくて、自分のことを「恋愛不適合者」だと思っているし、なんなら「恋愛クラッシャー」だとも思っています。
 
毎回毎回自分のせいで恋愛を壊してしまう。
私がもう少し穏やかだったらこうはならないのにと、恋愛が終わるたびにいつも反省してしまうのです。
 
その原因が自分のどこにあるのか、というのを、もうずっと何年も探っていて、一つとして今持っている答えが
『私が細かすぎて色々なことに気が付きすぎてしまうから』です。
 
私は細かすぎる故に、気が付かなくていい事にまで気が付いてしまう。
そしてその気が付いたことを、細かすぎる故に受け流すことが出来ない。
 
だから、気が付いてしまったことに対して突っ掛って、不穏な状態に陥らせてしまう。
 
これが恋愛クラッシャーである所以だと思っています。
 
自分ではそう思ってるから、毎回毎回、この性格の細かさを嘆くのです。
『私がもう少し穏やかで、細かい事を流せる性格だったら…』と。
 
そんな話を先日同級生にもしたのですが、その同級生がそれを聞いてこんな風に言ってくれました。
 
『確かにあなたの細かさがマイナスに働く事もあるのかもしれない。
だけど、私はあなたのその細かさがプラスになっていることを知っている。
あなたが気が付いてくれるから救われてる人もいる。
だから、そうやってマイナスだけを見て無い物にしようとはしないでほしい』と。
 
不意に言われたその言葉が、ストレートに胸に突き刺さって、思わずその場で涙を流してしまいました。
 
私はずっと、自分のこの細かさを『悪い部分』として扱ってきたことに気が付いてませんでした。
 
本当はこの細かさは『良い部分』でもあるはずなのに、その良い部分であることから目をそむけていたのです。
 
自分で自分のことを認められていなかった。
でも、それを友人が認めてくれたのです。
 
その言葉を言われて涙が流れたのは、きっと認めて貰えて嬉しかったのと、受け入れて貰えて安心したのと、その言葉に嘘が無かったからだと思います。
 
きっと自分一人では、一生この細かさの事を嫌って嘆いて自分を責め続けていたと思います。
でも、それを友人が食い止めてくれました。
 
こういう時に、友人の存在というものが心の底から有り難く感じます。
 
「ご縁に感謝」という言葉、正直あまり好きでは無いのですが、こういう時ばかりは、心からこの縁に感謝したいなと思います。
 
気が付くと「自分は一人で生きている」などと傲慢な事を思ってしまうのですが、本当はそんなこと全然なくて、こうして自分に関わってくれる人たちの優しさや、見えない所で気にかけてくれてる人たちの存在が、自分の人生をさりげなく支えてくれているのだなぁと思うのでした。
 
 
そんなことがあり、正直まだ落ち込んではいるのですが、初めに比べればだいぶ元気になってきたねこのこでした。
 
 
今日の夜からはちゃんと自分一人でもごはん食べます。
と、ココに書いて、自分への誓いに変えることとします。
 
今日はこれにて。

私は透明人間じゃない

今日は、もう超絶お怒りモードなので、本当に毒しか吐かないです。

見ても何の得もないです。いや、そもそもそういう記事が多い場所なんだけど、ココは。
 
さて、先日からちょこちょこと不愉快なことが続いていましてね。
どれもこれも仕方の無い些細な事だったりするんですけど、どれもこれも澱のように心の底の方に溜まり続けてて、じわりじわりとダークゾーンへ引きずりこまれている感じです。
 
これは少し自惚れになるんですけど、私は割と賢い方で、人の事も良く見ているので、気が付かなくていい事まで気が付いたりするし、その人が隠していること(見せないようにしていること)に対しても変な直感が働いて見抜いてしまう事があります。
 
で、まぁこれが良い方向に働く事もあるんだけど悪い方向に働く事の方が大概で。
気が付かなければ平和に過ごせるのに、気が付いてしまうから平和でいられなくなっちゃう、という事が多々ある。
 
言葉の端々に見え隠れするその人の本音にも割と敏感に気が付くので、本人さえ無自覚なことにまで気が付く事もある。
そして私が気が付く色々なことは、マイナスに働く事の方が断然多い。
 
例えば「この人私の事バカにしてるなー」とか「言葉は丁寧なのに見下してるなー」みたいなのを、ほんと嫌味な姑が埃を見つけるかのごとく気が付いてしまう。
 
さらに親しい人に対しては、いつも以上にこちらが良く見ているので、なおさら気が付きやすいっていう諸刃の刃になっている。
とても厄介な一品です。
 
で、最近そういうことで不愉快になる事がたくさんありまして。
 
つい先ほどとどめを喰らいました。
まだ憶測でしかないんだけど。
私がやられたら嫌なことをやられていたっていう。
しかも「これは嫌だ」という事は伝えてあったにも関わらず。
 
でね、思うんですよ。
 
どんな人間関係にも、当然配慮や気遣い、礼儀というのは絶対に大事だと。
だって、それが無くなったら、人を人として扱わなくなるでしょ?
相手の尊厳を損なう行為を、知らぬ間に軽い気持ちで行ってしまうでしょ。
だから、絶対に忘れてはいけない事だと思うの。
【親しき仲にも礼儀あり】って諺は本当にその通りだと思う。
 
きっと人って、大切な人や好きな人がいたら「その人のことを笑顔にしたい、喜ばせたい」って気持ちが湧くと思う。
でもそれとは逆に「その人に嫌な思いをさせたくない」っていうのもあるはずなのに、そっちを忘れる人が多いのよね。
 
本来ならそこは表裏一体で存在しているような気がしているの。
それなのに「嫌な思いをさせない」は忘れちゃう。
下手したら、そもそも視野に入ってない可能性さえある。
 
そして思う。
「これをされたら相手が嫌な思いをするってことを想像も出来ない様なアホが人の事大切にできる訳ねーだろ」って。
 
で、まさに私がされているのは「これをされたら嫌だろう」の方。
 
今までにも似たようなことが何度かあって、そのことに対して真剣に話し合いをしてきたんだけど、相手にはきちんと浸透していない様子。
 
「これをされたら嫌だろう」っていう事を知るには相手に何が嫌かを聞くのが一番早いけど、でも相手の事をきちんと見ていれば、聞かずともある程度分かると思うんだよね。
と、私は思うのだけど、そもそもその人は私の事が視界にあんまり入っていないみたい。
見てないからわかんねーんだよ。
見てないから同じこと繰り返すんだよ。
何となく分かった気で頭だけで行動してるからいけねーんだよ。
 
お前が生きてるのは「今、ココ」でしかないの。
今、目の前にいる私の事が見えて無くて、楽しい時間なんて過ごせるわけないだろうが。
 
そうやって自分が幸せな世界しか見ていないなら、今ココにいる私の存在意味はまーったくないよね。
だったら私は音もなく、今ココから姿を消してしまおうか。
どうせ私を見ていないのだから、気が付く事もないだろうし。
 
 
はーーーーー不愉快不愉快。
 
 
ここまで書いてて気が付いたけど、「ここにいるのに、いるものとして扱われない」透明人間状態なのが一番不愉快なのかもなぁ。
 

ただ調子が悪いだけ

今日は(も?)タダの愚痴です。

 
私は話を聞くのが上手な自負がある。
 
人から「こんな話をしたのは初めて」だとか「初対面の人にこんな話するなんて…」と言われる事がすごく多い。
多分それは私が聞き上手だからなんだろうなって解釈していた。
 
で、私が聞き上手であるのは、単純に勉強をしたからに他ならない。
元々の他者の感情を読み取るのが得意だという資質もあるかもしれないけれど、人がどうしたら自分の話をしやすいのか、ある程度知識として、そして感覚値として知っている。
だって勉強したし、実践もたくさん積んできたから。
 
だから私が聞くに徹すると、割とみなさんスッキリした気持ちになることが出来る様だ。
決して癒し系のタイプではないんだけど、人によっては私と会話する事で癒しを得ることができると言ってくれる。
 
それはとても嬉しい事だし、勉強して良かったなと思う。
 
さて人の話を聞くのが上手な私は、それ故に人にきちんと話を聞いてほしい欲が強い。
自分が割とちゃんと聞けるもんだから、他の人もそれが容易にできると思ってしまっている節がある。
 
しかし実際はそんなことはない。
こちらが話をしている途中に話の腰を折られたり、話題を持って行かれたり、自分語りをしてきたり…
そんなことがよくある。
そしてそんなことが続くと、とても悲しい気持ちになってしまう。
 
悩みがあった時、辛いことがあった時、誰かに話を聞いて貰おうと思っても、それによって自分の気持ちがスッキリする事はない。
ただ話を聞いてほしいだけなのに、いらぬアドバイスをされたり自分はこうだった~という話を聞かされたりして、こちらの気持ちに寄り添って貰えて無いなと感じることが多いからだ。
 
私はただ「それは辛かったね」「そっか、そんなことがあったんだ。大変だね」「悲しい思いをしたね」と共感して欲しいだけなのだ。
でも、それをしない(することを知らない?)人がとても多い。
だから、癒されない。
 
自分は人の話を聞くことによって多少人を癒せているようだけれど、自分が話す側になった時に癒されることはあまりない。
 
こんな感覚を持つのは間違っているのだけれど、どうしても損をしているなと感じてしまうのだ。
 
そんな自分にまたうんざりしてしまうのだけれど。
 
私がそれを出来るのは、勉強をして知識を得て、経験値を積んできたからだ。
それを他者に求めるならば、お金を払ってしかるべきところに行けばいいだけの話だ。
でも、自分と話をしてスッキリしていく人を見ると、あなたはタダでそのスッキリを手に入れられていいわね、と思ってしまうのだ。
性格が悪い。分かってる。でも、私もそれが欲しい。お金を払わずに。
 
そんな人としてどうしようもない事を考えている時は、単に調子が悪い時だという事を知っている。
 
今の自分はすこぶる調子が悪い。
今日はどうにかして、自分を癒すことに徹して上げたいなと思う。

言葉にしてない言葉を感じ取るセンサーが鬱陶しい

私は他人に対するセンサーがとても敏感だ。

ある程度相手の感情が分かってしまうし、何を言おうとしてるのかもだいたい分かってしまうし、その人が言葉にしない色々な事(ノンバーバルな部分)を嫌でも感じ取ってしまうという、長所とも短所ともいえない特徴を持っている。

 

その特徴がいい方向に働けば、私との会話がとてもスムーズにできて楽しいらしく喜ばれることも少なくない。

 

だが、こちらとしては見たくないものまで見えてしまう事が多々あるので、人間関係を築く上でネックになってしまう事がある。

 

例えば相手が無意識のうちにこちらをコントロールしようと変にマウンティングを取ってくるのを、一瞬で気が付く。

被害者に回って弱い立場で守られようとしているのも、一瞬で気が付く。

私を褒めて変に持ち上げようとするのも、一瞬で気が付く。

 

それらにものすごく敏感に気が付いてしまい、途端に不愉快になってしまう。

 

その他にも、無意識に小馬鹿にしてるなーとか、無意識に見下してるなーとか、無意識に面倒くさがってるなーっていうのを、こちらも無意識に感じ取ってしまう。

 

そして、イラつく。

 

これらをされるとどうしてイラついてしまうのか少し考えてみたのだけれど、要するにこれらをされると立場が対等では無くなってしまうから不愉快でイラついてしまうようだ。

 

私は良くも悪くも年齢関係なく対等でいたいという気持ちが強い。

なので、変に立ち位置を操作されると腹が立つのだ。

言いたい事があれば言えばいいし、言えないのなら自分の中に秘めていてほしい。

少しでも漏れ出ちゃうようなことなら、分かり辛い方法を取らずに、はっきりと言葉にしてほしい。

そう思ってしまうので、不愉快になってしまう。

 

で、最近そういうシーンに出くわすことが増えた。

それは、自分のパートナーがそういうことを無意識にしているな~って感じ取ってしまうから。

無性に腹が立ってしまう。パートナーだからこそ余計に。

 

しかし、それを変えてよ、というのは私のエゴであることも分かっている。

だから、どのように伝えるべきなのかが分からない。

分からないけど、不愉快な気分になってイラついて、それを止めることが出来ないから結局相手に怒ってしまう。

それやめてよ、って言っちゃうんだけどね。

 

この辺のあれこれは、昔から成長していないなーと思う。

まぁ、割と理性的に理論的に伝えられるようになった事だけは成長したとも思うけど。

 

パートナーシップを築いていく上で、大事なことってなんだろうと考える。

きっと、それぞれの理想とする事、目標とすることを確認し合って明確にし合って、合わない部分は妥協点を探す事、合う部分は協力して作り上げていくこと、なのだと思う。

全て自分の思い通りになんていかないし、全て相手の思う通りにも出来ない。

譲れない部分は譲らない事も大事だし、譲れる部分は率先して折れることも大事なのだろう。

でも、その兼合いがいまだにつかめずにいる。

もしかしたらこれは一生の課題なのかもしれない。

 

兎にも角にも個人的には、対個人となった時に対等な立ち位置で話がしたいと願っているので、それを出来る様な場づくりをしていく事に励むしかないのかもしれない。

 

もっと細やかないろいろな事を、大きくおおらかに朗らかに受け止められる人間になりたいものだ。

それが出来ずに人に指摘できることが、もしかしたら自分の良さなのかもしれないけれど。

それは私の理想とはちがうんだよなー。