脳内会議

考え事が好きな人の頭の中身

婚活アプリを利用してる男性に物申したい

私は今恋人がいないわけで、それはそれで楽しく暮らしてはいるのだが。

やはり年齢が年齢なだけに将来の事を考えてしまう。

私はこのまま一人でもいいかな、と思っている部分はあるものの、やはり結婚と言う単語が重くのしかかってくるのだ。

 

それは親から、友人から、世間から。

そして年老いた将来の自分から。

結婚、した方が良いよ、と言う声が聞こえてくる気がしてしまうのだ。

これは完全に呪いだろう。

私は結婚しなくたって幸せに生きていけるくらいには強さを持つ人間だと思っているが、そうは思っていても、やはり寂しさに負けそうになったり誰かと苦楽を共にしたい、と言う欲求にくじけそうになるくらいには弱い人間でもあるのだ。

 

だがしかし、今の私には新しい出会いもなければ、出会う場に行こうと思うほどフットワークの軽さもない。

そこでたどり着いたのが婚活アプリだ。

 

友人の中には婚活アプリがきっかけで結婚まで至った人もいる。

とてもお勧めされたので、モノは試し、社会勉強の一環、という事で登録してみる事にした。

 

様々なアプリがあり、それぞれに特徴が変わってくる。

良し悪しがあるだろうと思ったので、3つほど登録してみた。

 

そして登録してみて「おいおい、どうなってんだ…」と思う事が男性に対していくつかあったので、今日は一言(におさまってないけど)申させて貰おうと思う。

 

なんでその写真使ったの?

アプリを使用するにあたって、まずは写真の登録が必要となる。

写真選びはとても重要だ。
「顔がすべてではない」と言いたい気持ちも分かるが、画面上であなたの性格は分からない。
だからどうしたって容姿である程度判断してしまうのは仕方の無い事だ。

 

それなのに。
なんでその写真を使おうと思ったの?と問いたくなるような写真を使用している方がかなり散見される。

まずは「なんで?」と思う写真ワースト3をご覧いただきたい。

 

3位アプリで加工し過ぎて元の顔が良く分からない

2位寝起きで無精ひげ&髪ボサボサの写真

1位明らかに女性と写ってる写真を加工してる

 

もう、なんでなの???が止まらない。
いま、あなたはパートナーとして選ばれるかどうかの判断をされているんです。
それなのに、なんでそれ使った?
それがあなたのベストなの??

 

婚活アプリで出会いを求めるなら写真はかなり重要だ。
自分がネットでお買い物する時の事考えて欲しい。
アプリで加工しまくって、元がどんななのか分からなくなってる商品買おうと思うだろうか?

ネット通販で洋服買おうと思って、しわだらけになってる洋服の写真見てそれ買おうと思うだろうか?

 

明らかに女性と写ってる写真を使用してるのは、もう論外中の論外。
今から恋仲になろうとしている女性と出会おうとしてるのに、なんで女性と写ってる写真使うの?
嫉妬心を掻き立てようとしてるの?
するかバーカ、その前に戦力外だ。

 

何も詐欺写真と言えるくらい写りのいい写真を用意しろ、プロに撮ってもらえ、などと言うつもりはない。

 

ただ『他人がこの写真をみてどう感じるか、自分に興味を持ってくれるか』という事は考えるべきだろう。

そんな事さえ考えが至らないという時点で「君、そういうとこだぞ」と言いたくなってしまう。

 

自己紹介、それって定型文?

写真と同じくらい重要となってくるのが自己紹介文だ。
この自己紹介文を読んで初めて「この人はこういう事に興味のある人なのだな」と関心を持つ。


だがしかし。

 

圧倒的に情報量が少な過ぎる人が多過ぎる。

少なすぎる人が多すぎるってちょっとゲシュタルト崩壊しそうな言い回しだが、本当に「自分売り込む気あるの?」と思うような自己紹介の人が多すぎるのだ。

 

よく見かける自己紹介を平均してまとめてみた。

 

「友達に勧められて始めてみました!
 初めてなので良く分かっていません^^;

 趣味は読書とランニングです。
 休日は家で映画を見たり、カフェでコーヒーを飲んだり、まったり過ごしたりしています。
 
 周りからは真面目だねとよく言われますが、自分ではお調子者だと思ってます^^;

 笑顔が素敵な女性がタイプです♪
 少しでも興味を持ったらいいね!してください!
 宜しくお願いします!」

 

…まっっっっっっっったく有益な情報がない。
皆無。びっくりする。

 

そして、こんな感じの自己紹介の人が本当に多い。
なんだろう、量産型なのカナ?

 

みんな本を読むか走る以外やることないの?
そんなこと無いよね。
例えば読書なら、もう少しジャンルを詳しく書くとかしようよと思わずにはいられない。

 

あなたが読むのは小説なの?漫画なの?自己啓発本なの?
小説ならジャンルは何が好きなの?それとも好きな作家さんがいるの?
漫画なら何が好き?アニメも見るの?
自己啓発本なら何のために自己を啓発しようとしているの?

 

ランニングなら、どこを走ってるのかとか書いてみたらどうだろう。
皇居ランしてるならもしかして仲間がいるかもしれないよ?
海辺は知ってるなら、気持ち良さそう!私も海辺で走りたい!って思う人いるかもしれないよ?

 

本当にもう少し掘り下げるだけで、読んでる方の関心度は随分と変わるものだ。

自己紹介はアピール欄だ。
あなたはどんな人で、どんな人と出会いたいと思っているのか、もう少し具体的に書いて欲しい。

 

もしかしたら「この趣味はちょっと引かれるだろうから書けないな…」と思ってるものもあるかもしれない。
個人的な感覚だが、そういう事こそ『率先して書いて行こう!』と思う。
仲良くなったらいずれバレることだ。
だったら初めからオープンにして、その趣味を許容してくれる人、もしくは一緒に楽しんでくれる人をふるいにかければいいのだ。

 

名を名乗れ

アプリではいざマッチングして初めて、メッセージのやり取りが可能になる。

 

基本的にプロフィール欄に名前を載せている人は少なく、大概の人はイニシャルで登録されている。

 

なので、メッセージのやり取りを初めて一番初めにやる事は挨拶と改めての名前の確認になるのだが。

 

ここで自分の名前を名乗らない人もこれまた多い。

 

「マッチングありがとうございます!

 なんとお呼びすればいいですか?」

 

と言うメッセージが届くのだが、いやその前に自分が名を名乗れ。

最低限の礼儀だろうが。

 

相手に興味を持て

更にここからメッセージのやり取りが進む。

プロフィール欄を見て、共通の趣味などをベースにやり取りをしていくのだが、ここでまた躓きポイントがある。

 

それは「女性ばかりに質問させて、自分の話ばかりする」人の多さだ。

 

いいか、良く聞け。

会話とは「自分が喋る事」じゃない。

「お互いが話をする事」だ。

そして「相手に興味を持って初めて成り立つもの」なのだ。

ましてや友達同士でもなく、初めましての人同士の会話だ。

どうしたって会話のネタが少ない。

 

そんな時こそ大事なのが「相手に興味を持つ事」なのだ。

「相手に興味を持つ」とどうなるか?

「相手の事を知りたい」という気持ちが生まれ『相手に色々質問をする』事が増える。

 それによって会話が作られていくのだ。

 

考えてほしい。

貴方だって自分に興味を持って色々質問されたら「あぁ、この人は自分に関心を向けてくれているのだな」と嬉しくならないだろうか。

それを、だ。

女性ばかりにさせて全くしない男性がやたら多いのだ。

「君、そういうとこだぞ」と言いたくなる。(2回目)

いくら相手に興味があって質問をしていたとしても、ある程度で聞きたい事は尽きる。

それを一方通行でしていたら疲弊するに決まっている。

そうなったら当然フェードアウトだ。

 

「私は貴方に興味がありますよ」と言うサインにもなるのだから、率先して相手に質問をしていこう。

しかし当然のことながら、あまり踏み込み過ぎる質問はNGだ。

そういう質問はある程度関係性が出来てからにしよう。

まずは当たり障りのない趣味の事や休日の過ごし方から、徐々に関係を作っていく事をお勧めする。

 

押し売りうざい

ごく稀に自分を押し売りしてくる人がいた。

私「お休みの日はどんな風に過ごしていますか?」

相手「休日はカフェによくいきます!良かったら一緒に行ってくれると嬉しいです!良かったらですが!」

私「カフェによくいくんですね、おすすめのカフェとかあるんですか?」

相手「○○にある△△というカフェの珈琲はすごく美味しいですよ!自分的に100点です!ぜひ連れて行きたいです!自分的に気に入っているだけでお気に召すか分かりませんが…!自分はそこで彼女とまったり本を読んだりお話ししたりするのが夢なんです!」

 

…うっざ。

 

自分の押し売りはほどほどにした方が良い。

 

最後に

読んでいただいて分かったと思うが、今回は誰かのためになるような話ではなく、私のただの憂さ晴らしの独り言だ。

めっちゃディスってる。ほんとごめん。

でも、これを読んだ男性が少しでも参考にしてくれたら、ちょっとは私のイライラも報われる。

 

ただ「こんな事書いて置きながら、お前はどうなんだ」と言われてしまうと正直何も言えなくなってしまうくらいに自分もポンコツだ。

 

2か月程婚活アプリを試してみて、自分には向いていないんだな、という事は嫌と言うほどわかったので、そろそろ卒業しようと思っている。

(向いていないのはアプリも恋愛も)

 

私は出逢い以前に、どうやったら恋愛適合者になれるのかを学んだ方がよさそうだ。

 

今日の会議はここまで。

幸せの価値基準

私は一般的に言うと、すでに結婚して、子供もいて、親に孫の顔を見せてあげるという親孝行をしていてもおかしくない年齢だ。

 

でも、今現在その一般的な路線からガッツリ外れ、結婚をすることに対してそこまで積極的でもなく、子を持つ予定なんてさらさらない状態である私。

 

そんな私を見て周りの人間は言う。

 

「結婚はしないの?」

「子供はいいよ~」

「孫の顔が見たいのよ」

「早くいい相手見つけなさいよ」

 

年齢も年齢なので、言われる立場にある事は良く分かっている。

 

だけどな。

 

私は今恋人もいないし結婚なんて考えてないし子供を持つ予定なんて皆無だけれど、今の自分の状態を不幸せだなんて考えた事はないんだ。

今の私は、たくさんの悩みを持ってはいるけれど十分幸せであるし、別にこのままでもいいと思ってる。

 

それなのにどうして周りはやれ結婚だの出産だの言うんだろう。

 

今の時代結婚さえすれば幸せだ、なんて事は一切ない。

実際に3組に1組が離婚する時代だ。

そんな事は言わなくてもこの数字が証明しているだろう。

 

女性一人で生きていたって、それなりに生きていく事が出来る。

幸せの形何て人それぞれで、その人が何をもってして幸せだと感じるかはその人にしかわからない。

 

幸せの価値基準は人によって違うのだ。

 

結婚して、人生がものすごく豊かになった人もいるだろう。

出産して、自分の生きがいを見つけた人もいるだろう。

それぞれとても尊くて幸せな事だろうと思う。

 

ただ、その幸せは貴方以外すべての人に当てはまるわけでは無い。

 

私は結婚を「したくない」とも子供を「欲しくない」とも思っていない。

でも、しなくても幸せだし、子供を産んでいなくても幸せでいられる位には、自分の幸せの価値基準を知っている。

 

世の中にはそれこそ「結婚なんて死んでもしたくない」と思ってる人もいるし、「子供なんて絶対に産みたくない」と思ってる人もいる。

それはその人たちの価値基準が違うだけなんだ。

 

だから、自分の幸せの価値基準を私に押し付けてこないでほしい。

 

私は「結婚したい」と感じたらその結果が得られるような努力をするだろうし、

「子供が欲しい」と思ったときにはその結果が得られるように試行錯誤するだろう。

それらのタイミングは、自分がそうしたいと思った時にしようと思ってる。

だから、他人から何を言われても、「今、したいと思わないものはしたくない」にしかならない。

 

結婚がどれほど幸せなものなのか私は知らない。

子を持つことがどれほど尊い事なのかを私は知らない。

 

だからといって、それを知ってる人から押し付けられても、私は「知る」事は出来ない。

自分でそうしたいと思わないと意味がない。

 

どうか、幸せの価値基準を押し付けてこないでくれ。

鬱陶しいと言う感情しか湧いてこないんだ。

もし、本当に結婚して欲しいと思っているなら、その押し付けは逆効果でしかない事を早い所気が付いて欲しい。

 

きっと、私と同じ位の年齢の人で、私と同じような思いをしている人はたくさんいるのではないだろうか。

私と同じような人たちが、もう少し安心して自分の幸せを確率していける世界となりますように。

 

今日はここまで。

愛とはなんだ

最近バイトをしはじめて、色々あってバイト先まで2時間かけて通っている。

朝は7時台のそこそこ混んでいる電車で移動をするのだけれど、だいたい座る事が出来ないので移動時間がとても暇。

 

そこで最近行きの電車ではオーディブルを活用している。

オーディブルっていうのは、要するに音声で聴く本って感じ。

 

本だと初めての分野のモノはなかなか読み進められなかったりするけれど、音声だと半強制的に情報が入ってくるので、今まで触れる事が無かった分野の本を聴いて楽しんでいる。

 

その中でとても気に入った本があった。

ソクラテスに聞いてみた』と言う本だ。

 

主人公が現代にやって来たソクラテスと対話をしながら、哲学をするという内容だ。

 

その中で「愛」を定義する話があった。

私はこの話を聞いたとき、その内容がスーッと自分の中に入り込みなじんだ感覚を覚えた。

それはとても優しく暖かく、とても安心する気持ちになれたので、今日はそれを書きたいと思う。

 

******

話は主人公が「愛を誓う」という事に疑問を持ったことから始まった。

「愛」を「誓う」と言うのは一体どういう事なのか?

もしかしたらいつか他の人を好きになってしまう可能性があるのに、愛を誓うのは不誠実な事にはならないのか?と言う事に疑問を持ったらしい。

 

ソクラテスはまず愛とはなにか、を説明する前に、「恋」について定義をしようと話始めた。

 

ソクラテスは問う。

「君は恋を【する】だとか【やめよう】という選択が出来るかい?」と。

 

主人公は答える。

「それは、出来ません」

「もし恋を【やめよう】と思ってやめられるのなら、誰も失恋で苦しんだりはしません」

 

ソクラテスはそれに同意する。

「やめようと思ってやめられ無い、したいと思ってすることが出来無いのが恋だとして、それが自分の意志とは関係なく起こる事であるならば『恋は行為ではなく出来事』と定義が出来るね」

「人は、例えば禁煙やダイエットの様に自分の【行為】に誓いを立てるのであって、意思と関係なく起こる出来事には誓いを立てる事は出来ない」

「では、君は『好きな人を笑顔にする、大切にする、慈しむ、喜ばせる』という事を自分の意志ですることが出来るかい?それとも恋と同じように、自分の意志とは関係なく起きる出来事だと思うかい?」

 

主人公は答える。

「それは自分の意志で出来ると思います」

 

ソクラテスはうなずく。

「という事は、これらの事は「行為(事柄)」に属することなんだね?」

 

「はい、そうだと思います」

 

「それなら。これらは恋に属することではなくなるね。

さっき君は、恋は「行為」ではないと定義したのだから。」

「であるとすれば、『相手を笑顔にする、大切にする、慈しむ』などの行為をひとくくりにして、一体なんと呼べば、これらの事柄を正しく名づけたと言えるだろうか?」

 

主人公は少し考えこう答える。

「それが愛、でしょうか」

 

ソクラテスは言った。

「素晴らしい答えだ。」

「恋と愛の違いは、君がさっき言ってくれたように、恋は状態であり、愛は行為であるという点にあると言えるだろう。」

「だから恋に誓いを立てるべきではないけれど、愛には誓いを立てることが出来るし、大切に想う人がいるならば、むしろ誓うべきだと僕は考える。」

「僕は愛を誓う事は人間が成しうる最も美しい事の一つであると思う。

恋はいつか冷めてしまうものだ。だから僕たちは家庭の幸福を永続的にするために恋を愛に昇華させる必要がある。

そのために、愛の誓いと言うものがあるのではないだろうか」

 

*******

 

かなり簡略化したが、こんな内容のモノだった。

 

要するに愛は「行為」であり、自分の意志で成しうる事であるとソクラテスは語ったのだ。

 

私は今まで「愛とはなんだろう」と考える事が多かった。

なんとなく感覚として掴めても、輪郭がぼんやりとしていて

「これは愛と呼べるのだろうか」

「きちんと愛せているのだろうか」と不安になる事が多かったからだ。

 

でも。

このソクラテスの理論的な愛の定義を聞いて、胸のうちがスーッと晴れたような気がした。

 

今まで輪郭がぼんやりとしていた私の「愛」とやらが、しっかりとした輪郭を持ち

「愛とはこういうものです」と説明が出来るようになったのだから。

 

ソクラテスの言う愛の定義は、あまりにも理論的すぎると感じる人もいるだろうが、実際にオーディブルを聞いていると他の話とのつながりもあり、納得する部分があまりにも大きかったのだ。

 

そして、ソクラテスの言う通り「愛は行為」であるならば。

 

私はきっと、今まで拙いなりにもしっかりと人を愛する事が出来ていたし、何よりも自分が思っている以上にたくさん愛されていたのであると実感を持つことが出来たのだ。

 

そう思えた時に、どれだけ心が救われた気持ちになったか分からない。

電車に揺られながら、不覚にも涙を流してしまったくらいだ。

心が芯から温まり、不思議な安心感を覚える事が出来たのだ。

 

きっと私は一生この愛の定義を忘れることはないだろう。

そして、私の愛の定義は、このソクラテスの語った定義をなぞってこれから進化していくのだろう。

 

人によってこの定義は変わるものだと思う。

でも、今まであやふやだった自分の定義がはハッキリしたことは、とても大きな意味があった。

 

貴方の愛の定義はなんだろう。

良かったらぜひ、考えてみてほしい。

 

今日の会議はここまで。

分かってるけど出来ない

今日は覚書。

何かをしようと思った時に、色々な事情が絡んできて、やりたいのに出来ない、こうすれば良いと分かってるのに出来ない、みたいなことが良くある。

でも、どうしてそういう言葉が出てくるのかな?と考えた。
その結果、自分の中に出来ない理由を作ってるだけだった。

私は今、家を借りて自宅でサロンをやりたいと思ってるけど、お金がないので出来ずにいる。

これはある種仕方の無いことではあるけれど(鋭意貯金中)考え方を変えたら、借金したら良いじゃん、とも考えられる。

まぁ、借金はなるべくしない方向で考えてるのでこれは得策では無いにせよ、こんな感じで『出来ない、やれない』と思ってても、どこかしらに抜け道はあるのでないか?と気付いたのだ。

『出来ない、やれない』と思ったとき、それをゴールにせず、じゃぁ他の方法はないだろうか?と考えるのも大切なことなんだろう。

私の『出来ない、やれない』は思考停止の部分もあるので、気を付けたいと思った次第。

で、今力をいれたいことがあって、理由をつけては臆病になって腰が引けてたことを、ちょっと思い切って一歩踏み出してみます。

あれもこれも手に入れられたら最高だよね。

今日はここまで。

悲しい花火の思い出

ちょうど一年前の夏、私は二つの花火を見た。

 

一つは私の地元の花火だった。

楽しみにしていた花火だったけれど、最後は悲しい涙で終わった。

 

もう一つは当時住んでいた家から見た花火。

その家に引っ越すときに、夏にはベランダから花火が見れそうだと、心から楽しみにしていた。

二人でベランダからお酒を飲んで花火を見るのが夢だった。

花火当日、想像していた以上に大きな花火が、ベランダから見えた。

でも、その花火は一人で見る事になった。

 

私は初めて、花火を見ながら号泣した。

嗚咽が止まらなかった。

ベランダから花火が見れて、しかもそれが思いの他大きく見れて、嬉しいはずだったのに。

どうして私はこれを一人で見ているんだろうと思った。

その日、私の心は折れた。

 

今でも去年の夏を思い出すと苦しくなる。

とても楽しみにしていた夏のイベントが、両方とも悲しい思い出に変わってしまった事が、いまだに心のわだかまりになっている。

 

今年はそんな悲しい思い出を上書きしたいと、改めて地元の花火大会に行った。

友人とお酒を飲みながら見た花火は、去年とさして変わらなかった。

去年と変わらず花火はとても綺麗で、私の悲しい思い出が上書きされることはなかった。

 

そうだった。

私はもともと記憶の上書きが出来るタイプの人間ではなかったんだ。

だったら、この悲しい思い出はどうやって薄めていけばいいんだろう。

 

もうすぐ8月が終わる。

夏が、終わる。

 

私はまた、一歩も進むことが出来ていないような気持ちのまま、新しい季節を迎える。

新しい季節では、いったい何が起こるだろう。

後ろを振り返ったら、実は結構前に進めていた、なんて事は起きるんだろうか。

 

私があなたに残したもの

もし自分が男だったらこんな面倒な女と絶対付き合いたくない、と自分の事を思っている。

 

当然自分に対してそう思っているのだから、きっと私と付き合ってくれた過去の男性方も同じように思っているだろうと感じていた。

あいつは面倒なやつだった。二度とあんな女ごめんだ。もう記憶から消えてほしい。

きっとそんな風に思っているのではないか、そう感じていた。

 

先日偶然元彼のツイッターがTL上に出てきて(これは本当に偶然だけど、ある意味必然でもあった)興味本位で少し覗いてしまった事があった。

 

その彼は私と付き合っていた時に、過去にやっていた大好きな事を再開し始めた。

とても大好きだったことだけれど、なぜか遠ざかってしまったそれを、私と付き合っている時にもう一度やろうと思ったらしい。

私がそのきっかけを作ったんだと、当時の彼は確かそういっていた。

そのきっかけが何であったのか、忘れてしまったけれど。

 

それを彼は今でも続けていた。

そして、一つの成果(?)を出したようだった。

私はそれをとても嬉しく思った。

あぁ、貴方は今でも大好きな事を変わらずに続ける事が出来ているんだと。

そして、そのきっかけを作ったのは、私であったんだ、と。

 

もしその人の中から私の存在が全くなくなったとしても、彼がその事を再開したという事実が、大げさではあるけれど私の存在を証明してくれているようで、そして私の存在を認めて貰えているようで、とても嬉しく思った。

 

私は今までの恋愛で、誰に対しても何の役にも立たなかったんだろうなと思っていたけれど、実はそんなことなかったかもしれない、と思えた出来事だった。

 

あなたが私に残したものはたくさんある。

けれど、私はどうだっただろう?と、心苦しく思う日もたくさんあったけれど。

きっと、色々と、悪くはなかったんだろうな。

やっと、そう思えた気がした。

 

今日は独り言でした。

 

「許す」を強要する事の暴力性

他人との間に何か問題が起きたとき、

『被害者vs加害者』という構図になる事はよくある。

 

加害者が被害者を虐げ、被害者は苦しんだり辛い思いをする。

そんな構図をよく目にする。

 

そして問題が終息する時に起きる事と言えば

『加害者が被害者に対して謝罪する』という事だが、この『謝罪』と言う行為について以前から違和感を感じる事があったので、今日はその事について書いて行こうと思う。

 

*********

 

さて、皆さんは『謝罪』という行為は誰の為にあるものだと考えますか。

きっと『被害者』の為にあるとお考えでは無いでしょうか。

 

本来であればその通り。

 

『加害者』が『誠心誠意を尽くし』『被害者』に謝罪したならば、それはきっと被害者の為の謝罪だと言えるだろう。

 

しかし私は、実際に行われるその多くが、実は『加害者の為』の謝罪になっているように感じてならない。

 

日本では、小さい頃からの教育の中でこのような事を言われることが多いと思う。

 

「謝ったのだから、許してあげましょう」

 

小さい頃に友達とケンカした時に先生から「○○君はこうやって謝っているじゃない。△△ちゃん、許してあげよう?」という事を言われたこと、もしくは言っているのを聞いたことがある人は多いのではないだろうか?

 

この場合の謝罪は、本当に被害者にとっての謝罪になっているのだろうか。

いや、なっていない。

この謝罪は「加害者が許されるための謝罪」となっているのではないだろうか。

 

『謝罪』と『許し』はセットにされているが、本当はその二つは全くの別物である。

 

『謝罪』は加害者がするもの。

『許し』は被害者がするもの。

 

この二つは全く別の人間が行うものであって、「加害者が謝罪したから」といって「被害者が許すかどうか」は別の話なのだ。

実際に「謝られても気持ちがおさまらず、許す気になれない」という感覚を味わった事がある人はいるだろう。

また「謝っているのに、相手がなかなか許してくれない」という経験をしたことある人もいるのではないだろうか。

 

『謝罪』は『許される』為にするものではない。

『謝罪』は『自分の行った事に対して詫びる』ものだ。

 

その結果、被害者側が「貴方が心から詫びているのなら、もういいよ」と思ってくれて初めて『許す』になるだけである。

もし被害者側が「貴方が何を言っても、その行いを許すことは出来ない。貴方の謝罪を受け入れない」となってしまえば『許し』て貰えないのだ。

 

世の中では

『謝罪する』=『許される』

という方程式を絶対的なものだと思っている人が沢山いるようだが、それは全くの間違いである。

 

ここでとても怖いのが、『謝罪すれば許される』という方程式を絶対的なものと信じている人によって行われる『許しの強要』だ。

 

『謝ったのだから許してあげてよ』

 

このセリフを、貴方はどのように受け取るだろうか。

もしこれを「当然でしょ」と思った方は、よくよく考えてほしい。

 

そもそも『謝罪』は罪を詫びるために加害者がする事で、『許す』はそれを受けた被害者が納得してする事だ。

これは二者間で行われる話ではあるものの、あくまでも二者は全く別の人間であり、全く違う感覚を持った他人である。

 

もしも被害者側が「何度謝られても、どうしても許す気持ちになれない」となっている場合に「謝ったのだから許してよ」と言われたらどうだろうか。

 

被害者側だって、意地悪で『許さない』わけでは無い。

時には『許したくても許せない』場合だってある。

それなのに『謝ったのだから許して』と言うのは、ただの暴力ではないだろうか。

 

極端な話になるが、例えばここで起きた問題が「殺人」だったとしよう。

加害者は被害者(遺族)へ『謝罪』をする。

被害者(遺族)は『謝罪』を受けたからと言って、加害者を許すことが出来るだろうか?

 

そう簡単に許せることではないだろう。

 

それなのに、『謝ったのだから許してよ』と言われたらどうだろう。

『何故謝られただけで許さなければいけないのだ』となるのではないか。

『謝られたからと言って、許せる問題ではない』となるのではないか。

もしここで被害者(遺族)が警察や弁護士、または世間から『加害者は謝っているのだから許してあげて』と言われたら、それは言葉の暴力と感じるのではないだろうか。

 

それこそ、謝って済むなら警察はいらない、状態だ。

 

そして日常的に起きている小さな問題だって、これと変わりないのだ。

『謝罪』と『許し』はセットではない。

全く別の問題なのだ。

 

謝罪をするかどうかは加害者が決める事である。

そして、それを許すかどうかは被害者が決める事である。

 

全く持って、別の話なのだ。

 

*******

 

『謝ったから許される』と言う考えを持っている方がもしこれを読んでいたのであれば、ぜひこれだけは覚えておいてほしい。

『自分が謝罪することと、それに対して相手が許すかどうかは別の話である』と。

 

そして、なかなか人を許せずに苦しい思いをしている人にも伝えたい。

『相手が謝罪して来たからと言って、自分の気持ちを殺してまで相手を許す必要はない』のだと。

 

謝ったら許されることが当然だと思わないでほしい。

そして、謝られたからと言って、許すことが当然だと思わないでほしい。

この二つは全く別物だと、どうか頭の片隅に置いておいて欲しい。

 

今日の会議はここまで。