脳内会議

考え事が好きな人の頭の中身

愛とはなんだ

最近バイトをしはじめて、色々あってバイト先まで2時間かけて通っている。

朝は7時台のそこそこ混んでいる電車で移動をするのだけれど、だいたい座る事が出来ないので移動時間がとても暇。

 

そこで最近行きの電車ではオーディブルを活用している。

オーディブルっていうのは、要するに音声で聴く本って感じ。

 

本だと初めての分野のモノはなかなか読み進められなかったりするけれど、音声だと半強制的に情報が入ってくるので、今まで触れる事が無かった分野の本を聴いて楽しんでいる。

 

その中でとても気に入った本があった。

ソクラテスに聞いてみた』と言う本だ。

 

主人公が現代にやって来たソクラテスと対話をしながら、哲学をするという内容だ。

 

その中で「愛」を定義する話があった。

私はこの話を聞いたとき、その内容がスーッと自分の中に入り込みなじんだ感覚を覚えた。

それはとても優しく暖かく、とても安心する気持ちになれたので、今日はそれを書きたいと思う。

 

******

話は主人公が「愛を誓う」という事に疑問を持ったことから始まった。

「愛」を「誓う」と言うのは一体どういう事なのか?

もしかしたらいつか他の人を好きになってしまう可能性があるのに、愛を誓うのは不誠実な事にはならないのか?と言う事に疑問を持ったらしい。

 

ソクラテスはまず愛とはなにか、を説明する前に、「恋」について定義をしようと話始めた。

 

ソクラテスは問う。

「君は恋を【する】だとか【やめよう】という選択が出来るかい?」と。

 

主人公は答える。

「それは、出来ません」

「もし恋を【やめよう】と思ってやめられるのなら、誰も失恋で苦しんだりはしません」

 

ソクラテスはそれに同意する。

「やめようと思ってやめられ無い、したいと思ってすることが出来無いのが恋だとして、それが自分の意志とは関係なく起こる事であるならば『恋は行為ではなく出来事』と定義が出来るね」

「人は、例えば禁煙やダイエットの様に自分の【行為】に誓いを立てるのであって、意思と関係なく起こる出来事には誓いを立てる事は出来ない」

「では、君は『好きな人を笑顔にする、大切にする、慈しむ、喜ばせる』という事を自分の意志ですることが出来るかい?それとも恋と同じように、自分の意志とは関係なく起きる出来事だと思うかい?」

 

主人公は答える。

「それは自分の意志で出来ると思います」

 

ソクラテスはうなずく。

「という事は、これらの事は「行為(事柄)」に属することなんだね?」

 

「はい、そうだと思います」

 

「それなら。これらは恋に属することではなくなるね。

さっき君は、恋は「行為」ではないと定義したのだから。」

「であるとすれば、『相手を笑顔にする、大切にする、慈しむ』などの行為をひとくくりにして、一体なんと呼べば、これらの事柄を正しく名づけたと言えるだろうか?」

 

主人公は少し考えこう答える。

「それが愛、でしょうか」

 

ソクラテスは言った。

「素晴らしい答えだ。」

「恋と愛の違いは、君がさっき言ってくれたように、恋は状態であり、愛は行為であるという点にあると言えるだろう。」

「だから恋に誓いを立てるべきではないけれど、愛には誓いを立てることが出来るし、大切に想う人がいるならば、むしろ誓うべきだと僕は考える。」

「僕は愛を誓う事は人間が成しうる最も美しい事の一つであると思う。

恋はいつか冷めてしまうものだ。だから僕たちは家庭の幸福を永続的にするために恋を愛に昇華させる必要がある。

そのために、愛の誓いと言うものがあるのではないだろうか」

 

*******

 

かなり簡略化したが、こんな内容のモノだった。

 

要するに愛は「行為」であり、自分の意志で成しうる事であるとソクラテスは語ったのだ。

 

私は今まで「愛とはなんだろう」と考える事が多かった。

なんとなく感覚として掴めても、輪郭がぼんやりとしていて

「これは愛と呼べるのだろうか」

「きちんと愛せているのだろうか」と不安になる事が多かったからだ。

 

でも。

このソクラテスの理論的な愛の定義を聞いて、胸のうちがスーッと晴れたような気がした。

 

今まで輪郭がぼんやりとしていた私の「愛」とやらが、しっかりとした輪郭を持ち

「愛とはこういうものです」と説明が出来るようになったのだから。

 

ソクラテスの言う愛の定義は、あまりにも理論的すぎると感じる人もいるだろうが、実際にオーディブルを聞いていると他の話とのつながりもあり、納得する部分があまりにも大きかったのだ。

 

そして、ソクラテスの言う通り「愛は行為」であるならば。

 

私はきっと、今まで拙いなりにもしっかりと人を愛する事が出来ていたし、何よりも自分が思っている以上にたくさん愛されていたのであると実感を持つことが出来たのだ。

 

そう思えた時に、どれだけ心が救われた気持ちになったか分からない。

電車に揺られながら、不覚にも涙を流してしまったくらいだ。

心が芯から温まり、不思議な安心感を覚える事が出来たのだ。

 

きっと私は一生この愛の定義を忘れることはないだろう。

そして、私の愛の定義は、このソクラテスの語った定義をなぞってこれから進化していくのだろう。

 

人によってこの定義は変わるものだと思う。

でも、今まであやふやだった自分の定義がはハッキリしたことは、とても大きな意味があった。

 

貴方の愛の定義はなんだろう。

良かったらぜひ、考えてみてほしい。

 

今日の会議はここまで。

分かってるけど出来ない

今日は覚書。

何かをしようと思った時に、色々な事情が絡んできて、やりたいのに出来ない、こうすれば良いと分かってるのに出来ない、みたいなことが良くある。

でも、どうしてそういう言葉が出てくるのかな?と考えた。
その結果、自分の中に出来ない理由を作ってるだけだった。

私は今、家を借りて自宅でサロンをやりたいと思ってるけど、お金がないので出来ずにいる。

これはある種仕方の無いことではあるけれど(鋭意貯金中)考え方を変えたら、借金したら良いじゃん、とも考えられる。

まぁ、借金はなるべくしない方向で考えてるのでこれは得策では無いにせよ、こんな感じで『出来ない、やれない』と思ってても、どこかしらに抜け道はあるのでないか?と気付いたのだ。

『出来ない、やれない』と思ったとき、それをゴールにせず、じゃぁ他の方法はないだろうか?と考えるのも大切なことなんだろう。

私の『出来ない、やれない』は思考停止の部分もあるので、気を付けたいと思った次第。

で、今力をいれたいことがあって、理由をつけては臆病になって腰が引けてたことを、ちょっと思い切って一歩踏み出してみます。

あれもこれも手に入れられたら最高だよね。

今日はここまで。

悲しい花火の思い出

ちょうど一年前の夏、私は二つの花火を見た。

 

一つは私の地元の花火だった。

楽しみにしていた花火だったけれど、最後は悲しい涙で終わった。

 

もう一つは当時住んでいた家から見た花火。

その家に引っ越すときに、夏にはベランダから花火が見れそうだと、心から楽しみにしていた。

二人でベランダからお酒を飲んで花火を見るのが夢だった。

花火当日、想像していた以上に大きな花火が、ベランダから見えた。

でも、その花火は一人で見る事になった。

 

私は初めて、花火を見ながら号泣した。

嗚咽が止まらなかった。

ベランダから花火が見れて、しかもそれが思いの他大きく見れて、嬉しいはずだったのに。

どうして私はこれを一人で見ているんだろうと思った。

その日、私の心は折れた。

 

今でも去年の夏を思い出すと苦しくなる。

とても楽しみにしていた夏のイベントが、両方とも悲しい思い出に変わってしまった事が、いまだに心のわだかまりになっている。

 

今年はそんな悲しい思い出を上書きしたいと、改めて地元の花火大会に行った。

友人とお酒を飲みながら見た花火は、去年とさして変わらなかった。

去年と変わらず花火はとても綺麗で、私の悲しい思い出が上書きされることはなかった。

 

そうだった。

私はもともと記憶の上書きが出来るタイプの人間ではなかったんだ。

だったら、この悲しい思い出はどうやって薄めていけばいいんだろう。

 

もうすぐ8月が終わる。

夏が、終わる。

 

私はまた、一歩も進むことが出来ていないような気持ちのまま、新しい季節を迎える。

新しい季節では、いったい何が起こるだろう。

後ろを振り返ったら、実は結構前に進めていた、なんて事は起きるんだろうか。

 

私があなたに残したもの

もし自分が男だったらこんな面倒な女と絶対付き合いたくない、と自分の事を思っている。

 

当然自分に対してそう思っているのだから、きっと私と付き合ってくれた過去の男性方も同じように思っているだろうと感じていた。

あいつは面倒なやつだった。二度とあんな女ごめんだ。もう記憶から消えてほしい。

きっとそんな風に思っているのではないか、そう感じていた。

 

先日偶然元彼のツイッターがTL上に出てきて(これは本当に偶然だけど、ある意味必然でもあった)興味本位で少し覗いてしまった事があった。

 

その彼は私と付き合っていた時に、過去にやっていた大好きな事を再開し始めた。

とても大好きだったことだけれど、なぜか遠ざかってしまったそれを、私と付き合っている時にもう一度やろうと思ったらしい。

私がそのきっかけを作ったんだと、当時の彼は確かそういっていた。

そのきっかけが何であったのか、忘れてしまったけれど。

 

それを彼は今でも続けていた。

そして、一つの成果(?)を出したようだった。

私はそれをとても嬉しく思った。

あぁ、貴方は今でも大好きな事を変わらずに続ける事が出来ているんだと。

そして、そのきっかけを作ったのは、私であったんだ、と。

 

もしその人の中から私の存在が全くなくなったとしても、彼がその事を再開したという事実が、大げさではあるけれど私の存在を証明してくれているようで、そして私の存在を認めて貰えているようで、とても嬉しく思った。

 

私は今までの恋愛で、誰に対しても何の役にも立たなかったんだろうなと思っていたけれど、実はそんなことなかったかもしれない、と思えた出来事だった。

 

あなたが私に残したものはたくさんある。

けれど、私はどうだっただろう?と、心苦しく思う日もたくさんあったけれど。

きっと、色々と、悪くはなかったんだろうな。

やっと、そう思えた気がした。

 

今日は独り言でした。

 

「許す」を強要する事の暴力性

他人との間に何か問題が起きたとき、

『被害者vs加害者』という構図になる事はよくある。

 

加害者が被害者を虐げ、被害者は苦しんだり辛い思いをする。

そんな構図をよく目にする。

 

そして問題が終息する時に起きる事と言えば

『加害者が被害者に対して謝罪する』という事だが、この『謝罪』と言う行為について以前から違和感を感じる事があったので、今日はその事について書いて行こうと思う。

 

*********

 

さて、皆さんは『謝罪』という行為は誰の為にあるものだと考えますか。

きっと『被害者』の為にあるとお考えでは無いでしょうか。

 

本来であればその通り。

 

『加害者』が『誠心誠意を尽くし』『被害者』に謝罪したならば、それはきっと被害者の為の謝罪だと言えるだろう。

 

しかし私は、実際に行われるその多くが、実は『加害者の為』の謝罪になっているように感じてならない。

 

日本では、小さい頃からの教育の中でこのような事を言われることが多いと思う。

 

「謝ったのだから、許してあげましょう」

 

小さい頃に友達とケンカした時に先生から「○○君はこうやって謝っているじゃない。△△ちゃん、許してあげよう?」という事を言われたこと、もしくは言っているのを聞いたことがある人は多いのではないだろうか?

 

この場合の謝罪は、本当に被害者にとっての謝罪になっているのだろうか。

いや、なっていない。

この謝罪は「加害者が許されるための謝罪」となっているのではないだろうか。

 

『謝罪』と『許し』はセットにされているが、本当はその二つは全くの別物である。

 

『謝罪』は加害者がするもの。

『許し』は被害者がするもの。

 

この二つは全く別の人間が行うものであって、「加害者が謝罪したから」といって「被害者が許すかどうか」は別の話なのだ。

実際に「謝られても気持ちがおさまらず、許す気になれない」という感覚を味わった事がある人はいるだろう。

また「謝っているのに、相手がなかなか許してくれない」という経験をしたことある人もいるのではないだろうか。

 

『謝罪』は『許される』為にするものではない。

『謝罪』は『自分の行った事に対して詫びる』ものだ。

 

その結果、被害者側が「貴方が心から詫びているのなら、もういいよ」と思ってくれて初めて『許す』になるだけである。

もし被害者側が「貴方が何を言っても、その行いを許すことは出来ない。貴方の謝罪を受け入れない」となってしまえば『許し』て貰えないのだ。

 

世の中では

『謝罪する』=『許される』

という方程式を絶対的なものだと思っている人が沢山いるようだが、それは全くの間違いである。

 

ここでとても怖いのが、『謝罪すれば許される』という方程式を絶対的なものと信じている人によって行われる『許しの強要』だ。

 

『謝ったのだから許してあげてよ』

 

このセリフを、貴方はどのように受け取るだろうか。

もしこれを「当然でしょ」と思った方は、よくよく考えてほしい。

 

そもそも『謝罪』は罪を詫びるために加害者がする事で、『許す』はそれを受けた被害者が納得してする事だ。

これは二者間で行われる話ではあるものの、あくまでも二者は全く別の人間であり、全く違う感覚を持った他人である。

 

もしも被害者側が「何度謝られても、どうしても許す気持ちになれない」となっている場合に「謝ったのだから許してよ」と言われたらどうだろうか。

 

被害者側だって、意地悪で『許さない』わけでは無い。

時には『許したくても許せない』場合だってある。

それなのに『謝ったのだから許して』と言うのは、ただの暴力ではないだろうか。

 

極端な話になるが、例えばここで起きた問題が「殺人」だったとしよう。

加害者は被害者(遺族)へ『謝罪』をする。

被害者(遺族)は『謝罪』を受けたからと言って、加害者を許すことが出来るだろうか?

 

そう簡単に許せることではないだろう。

 

それなのに、『謝ったのだから許してよ』と言われたらどうだろう。

『何故謝られただけで許さなければいけないのだ』となるのではないか。

『謝られたからと言って、許せる問題ではない』となるのではないか。

もしここで被害者(遺族)が警察や弁護士、または世間から『加害者は謝っているのだから許してあげて』と言われたら、それは言葉の暴力と感じるのではないだろうか。

 

それこそ、謝って済むなら警察はいらない、状態だ。

 

そして日常的に起きている小さな問題だって、これと変わりないのだ。

『謝罪』と『許し』はセットではない。

全く別の問題なのだ。

 

謝罪をするかどうかは加害者が決める事である。

そして、それを許すかどうかは被害者が決める事である。

 

全く持って、別の話なのだ。

 

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『謝ったから許される』と言う考えを持っている方がもしこれを読んでいたのであれば、ぜひこれだけは覚えておいてほしい。

『自分が謝罪することと、それに対して相手が許すかどうかは別の話である』と。

 

そして、なかなか人を許せずに苦しい思いをしている人にも伝えたい。

『相手が謝罪して来たからと言って、自分の気持ちを殺してまで相手を許す必要はない』のだと。

 

謝ったら許されることが当然だと思わないでほしい。

そして、謝られたからと言って、許すことが当然だと思わないでほしい。

この二つは全く別物だと、どうか頭の片隅に置いておいて欲しい。

 

今日の会議はここまで。

正しさとは

小鳥がさえずる場所で、だいぶ呟いたりしていたのだけれど。

先日、モラハラにあった。

モラハラにあった、と言っても、私はモラハラがどういうものなのかを理解しておらず、指摘されて初めてそれと理解したのだけれど。

 

そんな事があって、その出来事から感じた事、思った事を少し書き連ねようと思う。

 

モラハラとは『倫理観の(モラル)嫌がらせ(ハラスメント)』だ。

モラル・ハラスメントとは、言葉、態度、文書などによって継続的に人格や尊厳を傷つける精神的ないじめ・嫌がらせです。1990年代の後半に、フランス人の精神科医マリーフランス・イルゴイエンヌが使い始めた言葉であり、その最大の特徴は、「静かに・じめじめと・陰湿に」行われることといえます。

モラル・ハラスメントとは? - ハラスメントに負けない職場の作り方ハラスメントに負けない職場の作り方

 

 この説明にある通り、相手の人格や尊厳を傷つける行為の事を指す。

 

さて、私が経験したことをものすごく端的に言うと

「貴方は間違っている、私の言っている事が正しい」

「私の言うとおりにしなさい」

「私を尊敬しなさい」

「あの人もこの人もこうなのに、どうしてやらないの?」

「貴方の為にこんなにしているのに」

 

などなど、こうしてみると本当にモラハラかつ自己愛性障害が垣間見れる感じの事を、グループチャットで延々と言われ続ける、という事を体験した。

 

事の詳細は割愛するとして、このモラハラさんは終始「自分が正しい」「自分はすごい」と言う事を主張している様に見えた。

 

この事に関して、感じた事がある。

 

このモラハラさん、実は今までも色々な人に対して、今回と同じようにモラハラをしてきていたのだ。

 

私はその中身を知ら無かった為、外野的に見ていると「モラハラさんは人の為を思ってとても親切にしている」様に見えていた。

だから正直、このモラハラに耐えかねて去って行く人たちに対して「どうして逃げるんだろう?せっかく親切に指導してくれているのに」何て事をのんびりと思っていた。

 

しかしそれは大きな間違いだった。

その時見えていなかった内側では、こんなことが起きていたのだ。

これは逃げるに決まってる。

モラハラさんは「自分が正しい」という事を曲げようとはしないのだから。

 

この【自分が正しい】という主張に、今回ものすごい恐ろしさを感じた。

【自分が正しい】というのは【自分以外は正しくない】とほぼ同義ではないだろうか。

それはすなわち、自分以外は受け入れないという事に他ならないのではないだろうか。

 

自分が正しいと信じる事で、ある意味自分を保っているのかもしれない。

でも、自分が絶対的に正しい、何てことはあり得ない。

見る視点が変われば

見る人の感情によっては

その人が持っている感性が変われば

どれも正しいし、どれも正しくない。

 

その正しさは自分にとっての正しさでしかなく、誰にでも共通するものではないのだ。

私にとっての正しいは、貴方にとっての正しいではないかもしれない。

貴方にとっての正しいは、私にとっての悪かもしれない。

それは絶対に忘れてはならない事だ。

 

これを忘れてしまうと、衝突しか生まなくなってしまう。

それはそうだろう。

「私が正しい」と言っているその内容に納得いかず、自分の意見を言ってみようものなら、きっと10倍にも100倍にもなって「自分の正しさ」を主張されるのだ。

言われた方はどうだろう。

うんざりして、もう何も言いたくなくなってしまう。

 

もしこれが「私が正しい」を曲げない人同士の衝突だったら?

永遠と話は平行線。ずっと折り合いがつかない。

「私が正しいのに、どうして相手はそれが分からないんだ。どうしても分からせないと」

きっとお互いにそんな事を思いながら、お互いぶつかり続けるのだろう。

 

想像しただけでぐったりしてしまう。

 

こうやって「私が正しい」という主張をしている人は、要するに「人を受け入れない」為、どんどんと人が去って行ってしまう。

 

このモラハラさんもそうだ。

私と同じようにモラハラをされた人たちは、みんなこぞってその人の元を去って行っている。

そして、その去って行った人たちに対して、モラハラさんはこういうのだ。

「私は間違っていない。私はみんなの為にここまでしたのに。」と。

その原因が自分にあるとも疑わず、溜息をつくのだ。

 

「自分が正しい」

そう思う事は悪い事ではないと思う。

正しいと思うその気持ちは、ある種の信念にもなるだろう。

しかし、その正しさは本当に自分の味方になっているだろうか?

その正しさが武器にはなっていないだろうか?

もし「自分が正しい」と言う気持ちを曲げる事が出来ずに、人と上手く関係を作れない事があったなら。

一度その正しさを見直した方が良いだろう。

 

正しいで人は幸せになれない。

正義は人を裁く武器となる。

その事を忘れずに居ようと思う。

 

今日の会議はここまで。

好きな人の全てを好きになる必要はない

今日はとあるツイートに触発されて、つらつら呟いた事を少し添削して記事として書きます。

 元となるツイートはこれ。

 

このツイート。本当この通りだと思うけど、実はこれが分からずに苦しい思いをしている人って多いのではないかと思う。

 

どんなに尊敬してる人が居たとしても、その人に対して嫌だなと思う部分があったりするし、嫌いな人であっても『この人のここはすげーわ』とも思う部分があったりする。

これ、別に何もおかしくないし変じゃないし、とっても当たり前の事だと思う。

 

例えば、貴方がカレー好きだったとする。

でも、その中に入っているニンジンが嫌いって事、あるよね。

逆に、ニンジンは嫌いなんだけど、カレーに入ってたら食べられるって事も、あるよね。

おかしな例え話だけど、こういう事だと思うんだよ。

 

わざわざ何かを統一しなくて良い。

ニンジンが嫌いだからニンジンが入ってるカレー丸っきり嫌い!だなんてならなくていいし、カレーが好きだからその中に入っている物全部好き!って無理にしなくてもいい。

好きな部分は好き、嫌いな部分は嫌い、でいいんだよ。

 

それに、誰かの事を尊敬して全肯定状態になったら、それただの心酔でしょ。

心酔と言うより、信者というか。

それってとても怖い事だと思う。

だって人って自分の中に「好き嫌い」「良し悪し」の判断基準を持っているはずなのに、それが機能しなくなるって事だから。
かなり盲目的になってしまうよね。

かなりその存在との境界線が薄れるよね。

だから、尊敬はするけど相容れない部分がある、みたいな状態ってある種とっても健全な状態なんじゃないかな。

 

もしもどこかに、『大好きな人の事の全てを好きになれなくて悩んでる』みたいな人がいたら、私は声を大にして言いたい。

 

『全て丸ごと好きになる必要なんてない』って。

 

人間は色んな面がある。色んな表情がある。色んな感情がある。

他人である以上その全てを見ることはとても難しいし、その全てを受け入れる必要はない。

貴方と相手はそもそも価値観が違う人間なんだから。

「価値観が似ている」事があったとしても「全く一緒」なんてほぼないんだから。

だから貴方が大好きな相手に対して嫌だと感じたとしても、それはとても尊い貴方の感情だという事を忘れないで欲しい。

それで良い。嫌だと感じる部分を無理やり受け入れる必要ない。

ただ、「相手にはそういう部分があるのだ」と客観的に受け止めてれば良い。

 

嫌だと思うその感情は貴方の大切な感性。

どうしても嫌なら冷静に相手に嫌なことを伝えたら良い。もしかしたら相手は、貴方の嫌だと言う感情をあっさり受け止めて改善してくれるかもしれない。もしかしたら改善してくれないかもしれない。

そこは相手の自由意思だから、その後の相手の行動にはあまり期待を寄せない方が良いけれど。


全てを受け入れられずとも、理解しあって関係を深めていくのが信頼なんだと思う。良い部分と悪い部分、両方あっての人だから。好きな人の全てを好きになろうとしなくていいんだよ。

好きは好き、嫌いは嫌い、という貴方の感覚を、まずは一番に大切にして欲しいと心から思う。