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脳内会議

考え事が好きな人の頭の中身

役にも立たないし薬にもならない話

今日のはまた、とんでもなく長い独白で、暗い内容を存分に含んでおります。

読んでも誰の得にもならない内容ですので、そっ閉じしてくださいね。

 

*****

 

ちょっと最近ごたごたしていて、心身共に落ち着きのない日々を送っています。

そんな毎日の中で、考え事が好きな(というか癖になってる)私は色々考えているわけなんですが。

 

私はもともとネガティブ要素の強い人間で、いつからそうなってしまったのかを思い出そうと思ったんです。

過去を振り返ると、明確に覚えているのは悪い記憶ばかりで、どうしてこうも嫌なことに固執してしまうのかほとほと呆れてしまうほどです。

 

その中でも鮮明に思い出したのが、小学生の頃のこと。

私はクラスメイトに無視をされていて、まぁ要するにいじめだったのですが、その時期本当に辛くて、毎日地面を見て歩いていた事を思い出しました。

地面を見て歩いていたので、前が見えていなかった。だから電柱にぶつかった。

人とぶつかったと勘違いした私は電柱に「ごめんなさい」と謝った。

顔をあげたらそれは電柱で、恥ずかしいやら悲しいやら虚しいやら、そんな思いを抱えた記憶があります。

 

あの頃から、いや、もっと以前から、私は極端に自己肯定感が低い人間でした。

だから小学生くらいから、私はもう、人生を終わらせて、私と関わった全ての人の記憶を消して、私が生きてきた痕跡をすべて消して、この世から消えてなくなりたいと願っていました。

 

この自己肯定感の低さは一体どこから来たのだろうと考えると、それは両親との関係が強いだろうと思います。

 

我が家は表面的には割と幸せな家庭でした。

でも、家庭内に不穏な空気が漂うことは少なくありませんでした。

 

私は両親の喧嘩を今までの人生で一度たりとも見たことがありません。

それを聞いた人は大概「ご両親は仲がいいのね」といいます。

でも実際は違います。

 

私の父は怖い人でした。

躾についてもそうでしたが、それ以上に自分の気に入らないこと、思い通りにならない事があるとすぐ怒る、怒鳴る、という怖さがありました。

特に父は小さな子供が好きでは無かったので、私がきゃっきゃと騒ぐ声や泣き声などが鬱陶しかったようです。

常に不機嫌でした。ムスッとしていました。何者も近寄らせないような雰囲気をいつも出していました。

 

一方母はと言うと、決して物静かなタイプの人間ではないものの、父を怒らせると厄介だということを心得ていたので、私がきゃっきゃと騒いだり泣いたりすると「んっ!しなさい!」(訳:我慢しなさい)と言う人でした。

 

そんな環境下にいたせいで、私は人の顔色を伺う事が上手くなり、我慢する強さを覚えました。

これはどういう事かというと、要するに「子供らしさ」に欠けた子供になったのです。

 

この二つを手にした私は、常に人の顔色を伺い、何か嫌なことがあってもまずは我慢する人間に育ちました。

そして、感情の出し方が分からない人間になりました。

 

感情の出し方が分からない。

これは、健全な人間である為にはとても致命的です。

 

感情は確かにここ(心の中)にあるのに、それの出し方がわからない。

そうするとそれらはどんどん溜まっていく。

溜まりに溜まったそれらは心の中で爆弾となって、限界を迎えたときに大爆発をする。

大爆発した私は感情の止め方も分からず、起爆させた原因(友人や恋人)を突き放す。

その繰り返しでここまで来ました。

 

今まで大切な関係をいくつも壊してきました。そんな生き方しか出来ませんでした。

 

それでも私は馬鹿ではありませんでしたので、いい加減これではダメなんだと気が付きます。

今から5年ほど前でした。

私はそこから心理セラピーの知識を身につけ、実際自分がセラピーを受けたりして、初めて人生に変化が見えてきました。

 

自己肯定感の低さは今も平均よりは低いですが、それでも以前に比べるとだいぶ上がってきました。

感情の出し方がわからなかった私は、そもそも自分の感情を感じ取る事が出来ていませんでしたが、最近はそれも出来るようになってきました。

 

少しずつ少しずつ、快方に向かってきています。

 

でもやっぱり完ぺきではない。

だから事あるごとに問題を起こしてしまう。

中でも問題を起こしやすい関係があります。

それは「恋愛関係」

 

親子関係で出来た拗れや傷つきは、恋愛関係で再現しやすいのです。

それはなぜかというと、親子同様、心の距離が近いから。

 

私は今までそれで何度も失敗をしてきました。

勉強やセラピーを受ける前はなぜ恋愛関係が上手くいかないのか原因が全く分からず、とにかく私の頭がおかしいのだ、相手の頭がおかしいのだ、等と自分を責め相手を責め、頭を抱えていました。

 

でも、最近顕著になったことが一つあるのです。

 

前述したように、私の父は怖い人でした。

そして「小さな子供が好きではなかった」のです。

 

きっと父本人に言わせれば、娘に対して愛情を持っていたのだろうと思います。

でも、その態度や言動を見る限り、幼い私には愛情を感じ取ることが出来なかったのです。

 

【私は愛されていない】

 

それがずっと根っこにあった事を最近になって気が付きました。

 

本当はお父さんに愛されたかった。

抱きしめて欲しかったし、頭を撫でて欲しかったし、笑顔を向けて欲しかったし、そうやってたくさん愛情を与えて欲しかった。

無条件で受け入れて欲しかった。

 

それが受け取れなかったことが、私の自己肯定感の低さの根源だったかもしれない。

そのことに最近になって気が付きました。

 

そして、父から得られなった愛情を、たぶん私は、今までの恋人たちから得ようとしていた。

たぶん、そのせいで、今までたくさんの関係を壊してきた。

これに気が付かなかったらたぶん、これから先もたくさんの関係を壊し続けるだろうと思う。

 

でも、気が付いた。

気が付いたから。

 

私はここから何かを変えられるような気がします。

 

私の自己肯定感の低さも、これからまた少しずつ上昇していくはず。

それは、お父さんに愛されたかった事実をやっと認められたから。

 

本当はこの気持ち、なんとなく気が付いていたんです。でも見て見ぬふりをし続けていたんです。

その気持ちと向き合うことは、私には辛くて怖すぎたから。

 

でもやっと愛されたかった事実を認めたから、多分これから、何かを変えていけるはず。

本当はお父さんに愛して欲しかった胸の中にいる子供の自分を、自分で愛してあげようと思います。

 

相変わらず私は自分の感情の上手な出し方が出来ないし、すぐに否定・拒絶された気持ちになってしまうし、すぐに絶望してしまうけど。

たぶんその問題の根源をやっと掴んだから。

今、気持ちは割とどん底だったりするけれど、私の目の前にある道に明かりが刺してきてる。

この明かりを見失わないように、少しずつ前向いて歩こうと思います。

 

えっと、結局のところ何が言いたかったのかはわからないけど、最近考えたあれこれと、感じたあれこれをつらつらと書きました。

 

これで以上です。

今日もまた、這いつくばって生きていきます。

では。

今回の騒ぎに思う事

大きな地震がありました。

現時点で、かなりの方が被害にあわれています。

被災された方たちへ心よりお見舞い申し上げます。

一日も早く平穏が戻りますよう、祈っています。

 

*****

 

今回こんな大きな事が起きて、各方面で混乱が起きています。

死傷者も、行方不明者も出ている。

家屋倒壊も起きている。

あまりこの言葉は使いたくないけれど、被災者の方たちはとても大変な思いをしている事と思います。

 

そんな中。

 

「当事者」ではない人達の間でも、すこし騒がしさがありますね。

今日はそれに関して私が勝手に思う事をつらつら書きます。

 

不快に思う方もいるかもしれません。

でも、これはあくまで私と言う一人の人間の、頭の中で考えている事としてお受け取りください。

 

 

******

 

私はFBを利用しています。

そのFB上で、今回の地震に関する情報をシェアしまくっている人たちを数名見かけました。

 

私はそれらの情報を見ても、現地の人間ではないし、現地の人との縁もないので、基本的にスルーしていました。

 

それでも次から次へとTLに上がってくるシェアされた情報たち。

それを眺めていた時に、こんな事を感じました。

 

「この情報は誰のために流されているんだろう?」と。

 

もちろんそこには『誰かの役に立ちたい』という気持ちが働いているのは事実だと思います。

『誰かの役に立ちたい』『自分に出来ることしたい』そう思う気持ちはとても尊いものだと思います。

 

でも、あなたたちがシェアしてるその情報、本当に役に立っているんだろうか?

そんな風に思ってしまったのです。

 

情報をシェアしている人の中には、実際に親戚が地震のあった地域に住んでいる人や、実家がその地域にある人達もいました。

 

でも、そうでない人もたくさんいました。

この人たちは、いったい誰に向けてシェアをしているんだろうと不思議になりました。

 

もしかしたらこの人達は

「情報をシェアすることによって、何かした気持ちになっているだけなのではないか」

と思ってしまったのです。

 

 

*****

 

 

私は思います。

「やらない偽善よりやる偽善」の方がいいと。

何もやらなければそこにはただの【無】しかないけれど、偽善であっても何かをすれば、それによって誰かが救われる事もあると思うから。

だから「やらない偽善よりやる偽善」の方がいいと思っています。

でも、さらに言うならば「役立たない偽善より、役立つ偽善」であった方がなお良いと思っています。

 

今、地震が起きた地域の方たちの姿をみて、自分も何か役立ちたいと願っている人がいるならば。

もしそれがただの承認欲求を満たすだけの行為であっても、それでも私はいいと思う。

でもせめて、現地の人たちに役立つ行動を起こして欲しいなと、個人的に思うのです。

 

*****

 

これはあくまでも私の考えであって、どの意見・考えが正しいなんて答えは無いと思っています。

でも私はこう思うから、せめて自分は自分の考えに沿った行動を取っていこうと、そう思ったのでした。

 

現地ではいまだに余震が続いている様です。

今日は天気も悪いみたいですね。

きっと、不安のうずに巻き込まれてしまいそうになっている方々が多くいるかもしれません。

遠く離れた地域に住んでいる私に出来る事は限られています。

それでも少しでもお力になれる様、私は私に出来る事をさせていただきます。

 

一刻も早く、すべての人たちの心が穏やかになりますように。

 

今日の会議これにて終了。

二種類の『心配する』

心配するという事。

一言に「心配する」と言っても、心配される側に立つとなぜか有り難いと感じられる「心配」と、鬱陶しいと感じられる「心配」がある事に気が付いた。

 

受け取る私に問題があるのかとも思ったが、よくよく観察してみるとそうではない事が分かった。

 

これはあくまでも私なりの感じ方だが、今日はその差を書き出したいと思う。

 

心配とは

まず、心配とはなんだろう。

調べてみよう。

 

デジタル大辞泉の解説

しん‐ぱい【心配】

[名・形動](スル)
物事の先行きなどを気にして、心を悩ますこと。また、そのさま。気がかり。「親に心配をかける」「将来を心配する」「心配な天気」
気にかけてめんどうをみること。世話をすること。「近くに住む娘が食事の心配をしてくれる」

なるほど。

要するに相手を気にかけて心を悩ましたり世話をする事らしい。

まずはそれを頭に入れておこう。

 

有り難い「心配」

前述の通りである。

相手の事を慮って、気にかけてくれた上での「心配」

これは紛れもなく有り難い心配だろう。

 

・あの人、体調悪そうだったな。無事に帰れたかな。

・一人暮らしのお母さん、ちゃんと家事出来ているかな。

・主人の帰りが遅いわ、どこかで事故にでもあったのかしら…

 

そんな風に相手の事を思った心配は、優しさとなり暖かさとなり、相手に伝わるものだと思っている。

 

有り難くない「心配」

では、その逆である有り難くない「心配」とは一体どのようなものだろうか。

 

それはおそらく、

『他人を思いやっている様で、実は自分の為のもの』である。

 

説明しても分かり辛いので例を挙げていく。

 

・小学生の子供が料理をしたがっているけど、包丁を持たせても大丈夫かしら…

(→もし怪我でもされたら怖くてたまらないから止めさせた方がいいわ)

 

・彼が体調悪いみたい。連絡もないけど平気かな。①

(→心配してるのに連絡も寄越さないなんてひどいわ)

 

・彼が体調悪いみたい。連絡もないけど平気かな。②

(彼の体調を心配する私、優しい。褒めて褒めて)

 

こんな感じだろうか。

 

そこにある差

この差、分かっていただけるだろうか。

 

有り難い「心配」というのは、純粋にその相手を想いその相手を気遣って出てくる言葉なのだろうと思う。

 

それに比べて有り難くない「心配」は、相手の事を想っているように見えて自分の事を想っているように感じるのだ。

 

例えば前述の小学生の料理の例え。

確かにけがをされるのはとても心配だ。

出来るなら愛する我が子に痛い思いなどして欲しくないはずだ。

でも、もし仮に怪我をしたとして、我が子が痛い思いをした先には何が待っているのだろう?

 

それは「包丁で手を切ると血が出てとっても痛い。だから刃物を扱う時は気を付けなければいけないんだ!」という気付きや、「怪我をすると痛くて辛い。だから他人を怪我させるような事をするのは良くない事なんだ」という発見、それ意外のたくさんの経験を積む機会であるという事。

 

そして、親が怪我をすることを心配して料理をさせないという事は、それらのチャンスや経験を奪ってしまうという事(そのチャンスより自分の心配を落ち着かせる選択をしているという事)になるのではないだろうか。

 

もちろん、程度の差はある。

しかし、相手の事を純粋に想って出てきた「心配」ではなく、自分の事を想って出てきた「心配」は、確実に相手からパワーを奪うような気がしてならない。

 

結論

少々ざっくりとした説明で終わってしまったが、まとめたいと思う。

「心配」することは悪い事ではない。

相手を想い、気遣い、慮って生まれる「心配」は相手にとっても嬉しいものであるはずだ。

しかし、自分が辛い思いをしたくないから、自分が満たされたいから、自分が安心していたいから生まれる「心配」は、相手を使って自分を満たす為の材料にしている可能性がある事、そして相手からしてみるとそれは「ただ鬱陶しいだけ」である事を忘れてはならないだろう。

 

ちなみに

私は心配される事は純粋に嬉しい事だと感じる。

ただ、やはりたまにではあるが「鬱陶しい」と感じることがある。

それはここに書いたように、「私の心配」をしているようで「私の心配」をしているわけでは無いという事が垣間見えるからだった。

 

特にこんな心配には要注意。

誰かが何かをしようとしている時に「それ大丈夫?」「もっとしっかり考えた方がいいよ?」「私は賛成出来ないな」「私は心配だから止めた方がいいと思う」などと、相手の行動を阻むように『心配』という武器で射撃してしまう行為。

 

それ、確実に相手のパワーとやる気奪ってますから!

 

その人が本当に危ない橋を渡っているのであれば全力で止めるのは優しさだ。

それは『相手を想って』生まれているものだから。

 

そうではないのにこの行動を取ってしまった場合。

それは暗に「貴方のやろうとしている事を、私は信用できません」と言っているのと同じではないだろうか。

 

仮にその人が失敗してもいいのだ。その失敗はその人が選んだ道の途中にあっただけで、その先にはまだ道が続いているのだ。

その人が失敗したとしても、それは貴方の責任ではない。

その失敗を経験したことで、新たな別の道が開ける事だってある。

心配であっても、不安であっても、その人が決めた事であればむやみやたらと口出しせずにぐっと堪え、それでも本心だけを伝えるに留めるのが一番いい気がする。

 

「私は貴方がその事をするのに不安があるよ。

 でも、貴方がその道を歩むというなら何も言わない。

 もし何かあったら全力で力になるから、いつでも言ってね」

 

それ位に留めた方が、きっと相手は安心して、力強く前に進んでいくのではないだろうか。

 

余談の方が長くなってしまった。

というか、メインは余談の方だったりして。

知らず知らず、相手の為を想ってたはずが相手のパワーを奪い取ってた、なんてことが無いように気を付けたい。

 

今日の会議はこれにて終了。

私を消費しないで

以前、相談事を私に話してくれる人が多かった。

 

それは私が人の話を聞く勉強をしていたからだと思う。

「うんうん」と一通り話しを遮らずその人の話を聞く事ができる。

話す人は、それだけでもかなり満足するらしかった。

 

私はというと、そんな大層な悩み事をわざわざ私に話してくれるなら、一生懸命聞こうと思い、とにかくひたすら話を聞いていた。

 

私にだって悩みの一つや二つある。常に悩みを抱えてる。結構大きな悩みを抱えてる時もある。それでも他人の話を聞いた。

 

話し終わった相手は満足して帰って行く。

私は聞きつかれてぐったりして帰って行く。

正直、しんどい。そう思った。

 

でも私に承認欲求もあったせいで、それでも何とか役に立ちたいと話を聞いた。

話しを聞いてはぐったりした。

 

それでも人に優しくしたかった。だから話を聞き続けた。

普段そんなに仲がいいわけでは無いのに、悩みを抱えた時だけ私を呼び出してひたすら話をし続ける人達。

うっすらと「利用されてるのかなぁ」なんて思いがよぎった。

でも、話を聞き続けた。

 

ある日、例のごとく私を呼び出した人がいた。

あぁ、またなのね、と思いつつも会いに行った。

待ち合わせ時刻になってもその人は現れ無かった。

イラついた。

しばらくして「子供がぐずってて、やっと今から家をでる」との連絡が来た。

イラついた。

 

しばらく待ってようやくその人が来た。

食事を食べながら話を聞いた。

ひとしきり話を聞いてひと段落した頃、その人がこんなことを言った。

「聞いてくれてありがとね。仲の良い友達には話せなくて…」

そう言いかけて『あ、まずい』という顔をした。

私は聞き逃さなかった。心中穏やかではなかったが「話ずらい話だもんね」なんて相槌を打った。

 

家に帰って、モヤモヤイライラする頭で色々と考えた。

「私はいったい何をしてるんだろう」と。

「私はいったい何のために自分を削ってまでこんなことしてるんだろう」と。

「そこまでしてその人の役に立ちたいのだろうか」と。

 

当然答えはNOだった。

そして思った。

 

私にはもしかしたら人より話を聞くスキルが高いのかもしれない。

そのスキルは人の役に立つのかもしれない。

でも、私は誰の役に立ちたいのだろう?

 

私は私が愛せる人の役に立ちたい。

私の手が届く範囲で、私が助けたいと思う範囲で、私が愛せる人たちの役に立ちたいんだと。

 

それ以外の人の為に、自分の労力と時間を割きたくはないんだと。

 

その考えに至ってからは、すっぱりその人たちの誘いは断るようにした。

「私に話を聞いてもらわなくたって、貴方には仲の良い友人たちが他にいるんだろう?

 だったらその人たちに聞いてもらえ。私を都合よく消費するな」

そう心の中で唱えながら。

 

それからずいぶん私のココロは軽くなった。

他人からいらない負担を貰い過ぎていたようだった。

 

今、私にわざわざ相談だけをしにくる友人はいない。

普段から食事に行ったりする中で、時々悩みを相談してくれる。

そんな時、私は心の底から「よし、こい」と思う。

大切な友人たちの悩みなら、いくらでも聞き続けてあげたい。

そう思うから。

私は悪なのか

暗い話になってしまうが、吐き出させてほしい。

 

私は昔から気分が安定しない。

小さなことでイラついて、その感情を引きずってしまう。

ここ最近は、イラつきはするものの、そのイラつきを何日も引きずる事は無くなった。

私の中では大きな成長だと感じている。

それでも、理由なくイラついたりする事は間々ある。

 

昨日彼に怒鳴られた。

私が悪いのは十二分に承知しているから、それに関して何も言うつもりはない。

 

とある事にイラついてしまった。

イラつくきっかけは私が作ったんだと思う。

でも、イラついてしまって、どうしようもなかった。

連日の睡眠不足と、仕事での疲れが私の余裕を失わせ、イラつきをよけることが出来なかった。

結果、態度の悪い私を彼が怒鳴った。

 

特別大きな理由が無くても、イラつく事位誰にでもあると思う。

そういうイラつきは時間が過ぎれば忘れるものだと認識している。

でも、ダメらしい。

イラついてる時点でダメらしい。

放っておいてくれればいいのに、そうはいかないらしい。

いちいち理由を尋ねられて、改善せねばならないらしい。

ちょっとイラつく、を、そのままにはさせてくれないらしい。

 

彼の言い分だと、「理由なくイラつくのはおかしい、悪い」事らしい。

となると、女性特有の波を持ってる人は軒並みアウトと言う事だ。

 

些細な事でイラついてしまう私は悪なのだろうか。

仕方ないことだってあるように思うのだが、ダメなのだろうか。

どうしてイラついてる私を放っておいてはくれないのだろうか。

 

いや、そもそも。

「イラついて機嫌が悪い私」は、相手には受け入れて貰えていないようだ。

きっと、常にニコニコご機嫌でいれば許されるのだろう。

でも、そんなの、私には無理だ。

いつもダメな私に真剣に向き合ってくれているけど、ダメな私を受け入れては貰えない。

要するに私が「ダメではない私」じゃないといけないという事。

 

そんなことってあるのだろうか。

人は良い部分もあれば悪い部分もある。

その悪い部分も受け入れられるようにしていくのが人間関係ではないのだろうか。

受け入れられないのなら距離を取るのが平和な関わりあい方なのではないのだろうか。

 

どうして、受け入れてもくれなければ距離も取らせてくれないのだろう。

要するに、自分が思う通りに私を変えたいという事なんだろうか。

受け入れられないのは百歩譲って仕方ないにせよ、それを否定する必要は無いのではないだろうか。

 

機嫌が悪くなってしまう自分を、私自身好きではない。

だから今まで自分なりに努力をして来たつもりだ。

少しずつ変わってきたはずだ。

それでも受け入れて貰えない私はどうすれば。

自分を押し殺してでも、イラつきを隠してニコニコしなければならないのだろうか。

 

そんなの、一人の人間としての人格まるでなしじゃねーか。

 

今日の会議は終わらない。

平和な人間になりたい。

せめて自分は、他者の感情を許容できる人間でいたいと願う。

受け入れてもらえない事は苦痛でしかないから。

老いは悲しい

老いは誰にでもやってくる。
悲しむべき事では無いと認識しつつも、悲しいと感じてしまうのはなぜだろう。

祖母が迷子になった。
母の運転に覚束無いところが目立つ。
書ける漢字が減った。
昨日の会話を忘れた。
あの人の好きな食べ物と嫌いな食べ物が覚えられない。

老いは誰にでもやってくる。
それは仕方がない事だ。

それでも、老いを感じるごとに、無性に悲しくなってしまうのは何故だろう。

きっとそれは、確実に死へと向かっている事の表れだからだと思う。

 

老いは悲しい。


老いは、怖い。

不意な虚無

不意に虚無感に襲われることがある。

トリガーなんて無くて、本当に不意に。

何のために生きてるんだろう。何がしたいんだろう。何のための人生なのだろう。

そんなことが不意に頭の中を覆い尽くして、とんでもない虚無感に苛まれる。

心がぽっかり空洞を作り、冷たい風が吹きすさぶ、そんな感覚に囚われる。

 

大概そういう時は疲れのサインだったりするのだけれど、虚無感というのはなかなか破壊力があるので、出来ればそんな虚無感とは早めにおさらばしたいところだ。

 

そういう時に、どうやって対処したらいいのかを考えてみた。

以下に記す。

 

対処法

・寝る

虚無感だけでなく、イライラだったりモヤモヤだったりに飲み込まれそうになった時も同様だ。

『寝る』という事は一旦スイッチを切る感覚に似ている。

寝る事さえ出来れば、寝る前の嫌な感情はかき消される。

悪夢を見る事もあるけれど、夢は夢だ。

だいたい私はイライラしたりモヤモヤしたりしている時はとにかく寝ようと試みる。

そうして寝て起きると、イライラもモヤモヤもいなくなっている。

たまに寝て起きた後もそいつらがいる事もあるが、間違いなく、勢力は弱まっている。

 

・現実ではない世界に飛び込む

これは要するに

・テレビを観る

・映画を観る

・本を読む

・音楽を聴く

・舞台を観る

というような事だ。

テレビも映画も本も音楽も舞台も、そこに広がる世界は自分の現実ではない。

現実ではない世界に意識を集中させてのめり込む事で、『今ある虚無感』から意識を遠ざける。

たったこれだけの事でも、いい切替になる。

 

・好きな事をする

好きなことは何でもいい。

散歩が好きなら散歩をすればいい。

カラオケが好きなら一人でカラオケに行けばいい。

ショッピングが好きなら街へ繰り出せばいい。

ちなみに私はモノづくりが好きなので、モノづくりに没頭する。

好きな事をすれば『虚無感』という嫌な感覚は圧倒される。

でも、ここで注意が必要だ。

無理やり自分の好きな事をしようとした場合、体が拒絶反応を起こすことがある。

その場合は無理にそれを続けることはやめた方がいいかもしれない。

もしかしたら、自分の好きな事が好きではない事にすり替わってしまう可能性があるからだ。

不意に襲ってきた感覚の為に、好きな事を失う必要はない。

 

****

 

以上が私のお勧めする対処法だ。

でも、上記の事を試してみてもどうしようもない場合もある。

そんな時の対処法も記しておこうと思う。

 

諦める

気分転換をしたり、あれこれやってみた結果、それでもどうしても虚無感が晴れない時もある。

そんな時は、もうそれ以上虚無感から遠ざかるのを止めることをお勧めする。

 

人は良くも悪くも一定ではいられない。

楽しいと思っていた矢先辛い事が起き、苦しいと思っていた矢先嬉しい事が起きる。

それらによって刻一刻と、人の感情は移り変わるものなのだ。

今感じている『虚無感』だって、この先一生続く事は無いだろう。

ならば、もういっそのこと『虚無感を無くす』事を諦めてしまうのも手だ。

『虚無感を無くす』事に四苦八苦しているうちは『虚無感を無くす』事にフォーカスしている事になる。

フォーカスしていると人は無意識にそこへ集中してしまうのも真実だろう。

だったらもう、『虚無感を無くす』事から手を放してしまえばいい。

それでも時間は過ぎて行き、時間と共に感情は変化していくのだから。

時間はさり気なく、でも確実に日常へと誘ってくれるだろう。

 

****

 

本日通勤途中の電車の中で虚無感に襲われた私が、電車の中でつらつらと考えた事を文章にまとめてみた。

今日はここまで。

会議終了。